精神科医の中井久夫さんが行われた講演「家族の臨床」(85年)の一節から。

《われわれは明治以降大家族から核家族になっていったといっても、中国に比べれば元々の「大家族」がたいしたものではないんです。二百人が一家族というフィーリングを持っていたのは、おそらく江戸時代の初期まででしょう。秀吉というすごく賢い人が、大家族をおいておくとよからぬたくらみをするに違いないということで、「大家族同居の禁」というのをやりまして、同居させないようにしてしまった。旧家で本家とか分家とかいう分離は聞くとだいたい、七、八代から十数代前に起こっている。ちょうど時代が合いますね。中国では中庭のある口の字形の家屋に、二百人ぐらいが一緒に住むのを理想としていますね。現実には、すべてがそういう家を持っているわけではないが、これを「四世同堂」というんですが、曾祖父母から四代が全部一つ屋根の下に住むというのが理想らしいです。家計も、一人が出世すると二百人が寄食するわけです。

それにひきかえ日本の家族はもろい。すぐ孤立無援になる。戦前もそうです。だから家族の力をギリギリまで試してはならない。家族をつぶしてはダメだということを私は申しております。これも中根(千枝)さんが言っておられたのだが、中国の家族は父親がどうであろうと父親ということだけで、もう尊重され威厳がある。日本の家族では一所懸命父親を演じていなければならない。「お父さんらしくしなさい」と言われて一所懸命お父さんらしくして、やっと認めてもらえるか認めてもらえないかであります。まあ地方によって若干ちがいまして、東北地方の方はイロリのそばの座敷が決まっていて、お父さんの前ではふるえていたもんだといわれます。東北の方にはお父さんはなかなか恐ろしい世界らしい。それにひきかえ関西のお父さんは、大体サザエさんのマンガのあのお父さんでありまして、二枚目半を演じて、オッチョコチョイとからかわれながら、ようやくお父さんの座が与えてもらえる(笑)》(『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫版、2011年)


家族の問題は単純ではない。大家族といって、その昔の中国の華僑のように二百人が同堂していれば、いろいろな意味で支えあい、教えあい、助けあい、慰めあい、諫めあうというか、まるで地域全体が一家族である利点を生かすことができる。(小生の友人がニュージーランドに永住していますが、近年の中国人の移住生活は凄まじいらしい。百世帯が住むマンションを独占するような事態が出来しているという。今では移住者の制限が行われています)だれかが病気になっても少しも困らないし、少々の困難なら家族が包み込んでくれるだろう。その形態がいいか悪いかの問題ではなく。そのようなものとして、家族を維持してきたのです。
日本の「核家族(Nuclear Family)」は爆発寸前です。核融合(Nuclear fusion)ではなく核分裂(nuclear fission)そのものです。「核」という語を当てたのは社会学者ですが、その当否はさて置くとして、いかにも「家族」の来し方行く末を明示していました。「分裂」は元に戻りません。三人家族で一人が病気をすれば、家族は危機に見舞われる。かといって、それを回避する手当も今のところなさそうです。社会の病理とはいうけれども、その大半は家族が半家族、反家族状態にまでいたっていることになんらかの背景や理由がありそうです。「近代化」の覆うべくもない一面でした。(中井さんの書かれたものを読まれますように。ぼくはどれだけ氏から「教えられた」ことか。もっとも信頼しうる「精神科医」であると、ぼくは学び続けてきたといいたいね)


この「コロナ禍」下ではシングルママやパパたちが塗炭の苦しみを味わっておられます。「十万円」などとケチなことを言わず、二回でも三回でも、必要なところに届けるべきです。もとを糺せば、人民の「税金」ではないか。国会議員は「受け取らない」という決議をした、と。おのれたちが「全員一致」で決めたものを自分たちで破棄する破廉恥にも程というものがある。いったんは受け取って、必要なところに寄付するべし。「政治資金規正法」違反になるなら、みんな捕まればいいじゃん。まさか無期懲役や死刑にはなんないでしょうよ。「身を切る改革」とか、利いた風な口をききなさんな。一見格好良さそうな、「受け取り拒否」は何を示していますか。おれたちは「十万ポッチ」貰うほど窮していないよ、そんなはした金なんかというのか。これをこそ、人民を舐めて(見縊って)いるというのです。