
「本物のデモクラシーは少数意見を尊重するだけでなく、むしろ少数意見の発生を助長する。本物のデモクラシーは満場一致の成立を歓迎しないだけでなく、むしろ嫌悪し警戒する」「肉体に身の丈があるように、精神にも身の丈がある。それを思い知らされた人はふるい立ち、出なおすものではあるまいか。打ちあけると私は幾たびも自嘲をバネとして元気を取り戻した。内なるわが身の丈をゆびさして、「おまえはなんとおろかなやつだ」とあざけるおのれに向かって、「くそくらえ」ともう一人の自分がつかみかかるように腰を上げて、それで失意のそこから歩き直すことができた」
「学校教育の課目の中で、「歴史」は内容がいきいきしていて、人を賢くする養分が特に抱負です。青少年は飛びつくはずなのに、背を向ける理由は、二つ考えられる。第一、人民にあまり賢くなられては困る支配権力が、歴史嫌いの青少年をふやそうと教育内容に干渉している。第二、権力のそういう悪だくみを打ち破れるまで親も子もまだ賢くなっていない」

「学校のテストでは、問いも答えも教師によって用意されていて、生徒は弓矢で標的を狙うようにして単一の正解を射ようとする。社会生活で出会う試練では、問題が他人によって用意されている場合よりも、何が問われているかを自分で考えなければならない場合が多い。解答も自分で手づくりして、ああでもない、こうでもないと模索を重ねながら解いていく。学校のテストで訓練される能力と、社会生活で要求される能力とは、方向があべこべだ。学校の優等生が社会で落後しやすいのは当然である」

「…一プラス一はいくつ?」と問うて「二」という答だけを正解とし、他の解答にはみなバッテンをつけ、バッテンの多い子を劣等視する行為は、人間そのものの開発をめざす教育とは全く無縁である。学校が子供から個性を抜き取る装置であることをやめるには、テストの成績で子供に優劣をつける振る舞いをやめるだけでなく、そもそも子供をヨイ子とワルイ子、優等生と劣等児に区分する発想を棄てなければならない。もしテストをやめれば学校が成りたたないなら、学校それ自体をやめなければならない」(「詞集Ⅲ」評論社刊、1988年)
どこかで何回か触れたむのたけじさん。秋田県横手の出身でした。百歳を超えて、なお現役で活動されたジャーナリスト。現在の朝日新聞社の元記者でもありました。「詞集」は全五冊で、いわば「箴言」集です。「戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言」とデジタル大辞泉にありますが、ぼくはこの説明には賛成しない。教訓や戒めと取れば、どんな言葉でも「トイレ」の飾りになりがちです。(それで、いけなくはないが)あえて言えば、「肺腑の言」でしょう。「心の奥底。心底。転じて、急所。「肺腑をえぐる言葉」(同上)、心底からの言。「ペンに全体重をかけて」というのはむのさん。むのさんの体重がかかった言葉の一つひとつ。

「学校が子供から個性を抜き取る装置」であると見抜くには、その人の学校経験がなによりもものをいうのです。学校は牢獄であり、競技場、あるいは「人間性破壊工場」だなどと、たくさんの人がみずからの経験にてらして率直に語られているように、むのさん自身も「学校の反教育性」をじかに経験されたというのです。「優劣」にこだわりぬく学校はいち早く破壊しなければならないにもかかわらず、それが永続しているのは、誰彼が「人より優れていたい」というこすからい、卑しい根性にまみれて(育て上げられて)いるからに他ならない。反対に、そんな卑しい人間は「他人を馬鹿にする」しか能がないのですよ。まことにいやな「能力(かね)」だね。
劣島の学校教育では「一番病」の感染力が猛威を振るっています。まだ、ワクチンもないし、抗体を持つ既感染者も、はなはだ少ない。いまこそ、抗体検査を学校自身がやらんといかんね。むのさん、2016年8月、死去。101歳。