今週のことば(20/04/05)

 鵺(ぬえ)のような全体主義

 ――最近の「琉球新報」のインタビューで辺見さんは、「鵺のような全体主義」とおっしゃっていますね。

辺見 この国のいまについて、私の肌で感じたもののいい方なんです。朝日新聞社刊の『眼の探求』でも書きましたし、「世界」(九八年七月号)での前田哲男さんとの対談でもそういう発言をしました。鵺のような全体主義のやっかいさは、「主体」がないということだと思うのです。菌糸のように絡まり合う全体主義でもあり、明確な責任をもった主体が皆無に等しく、全員が自覚なき共犯者で、無責任に絡まり合い、発酵し合う。かつての古い形の全体主義のように、軍部があってそれが領導して、とかいうことではないのですね。これだけ、ある意味で安保改訂より重大な法案(新ガイドラインとその関連法案)なのに、特段の強権発動もない。物理的に国家権力が言論を弾圧しているわけでもない。あからさまな抑圧はない。巧妙な形の世論誘導はあっても、はっきりした翼賛体制が存在しているわけでもない。それなのになぜ、ここまで一般の議論が死んでいるのか。鵺のような全体主義が議論を殺しているのです。加えるに、私は自己規制があると思っています。メディアの人間たちが、ただ群体としてふるまうばかりで自分の主体というのを隠していく。私は八〇年代からそれがマスメディアのなかで非常に顕著だと思っています。

トラツグミ

 少なくともいくつかの主要なマスコミでなにかを語るときに、あるいは書くときに、あっ、これは自由かつ大胆にいえなくなってきているんだなというテーマが三つほどあるのです。それは、一つにはいわゆる「慰安婦」問題です。二つ目は死刑制度の問題、三つ目は天皇制の問題です。これらに関する企画を立て、堂々と語るということがいかに難しくなってきているか。これらには触れるなという規定があるわけではない。しかし、現場はいやがる。コントラバーシャルになるのを恐れる。たくさんの顔のない、主体のない菌糸が絡まり合って、なんとはなしに、なし崩し的に、こういった大テーマはやらずにおきましょうやとなっていく。それに、まっとうな議論を冷笑するのも鵺的全体主義の特徴です。主体がないからどこにも責任もない。これはほんとうにしんどいですね。戦後のどの時期よりも、言論はじつは不自由です。鬱陶しいです、じつに。(中略)

 皆がなぜか肯綮に中るのを恐れ、大事なテーマを深めるのでなく、テーマを拡散し、攪拌してしまっています。情緒を全面に押しだして冷静な論理を圧殺してしまう。問題の芯に触れず、枝葉ばかり論じる。マスコミはそうし向けていく酵母菌のようです。「個」を発酵させて、全体のなかに溶かしてしまう。そのうちに、マスコミは肯綮がどこにあるのか、芯や急所が奈辺にあるのかさえわからなくなる。これらもまた、鵺のような全体主義の特質です。すなわち、権力者は力ずくで人々を屈服させる必要もない。テポドン一発、不審船数隻でマスコミはにわかに熱くなり、新ガイドラインにも関連法案にも無批判どころか、後押しするような報道に変わっていくのです。(辺見庸「われわれはどんな曲がり角を曲がろうとしているのか」「世界」99年6月号。『独航記』所収、角川書店刊。99年)

 状況の危機は言葉の危機でもあると、辺見さんはいう。その通りだとおもう。他人の言葉を、無抵抗で受け入れる。政治の言葉や経済の言葉、それは言葉ですらない、お手軽な「符丁」そのものです。その他、マスコミの垂れ流すもろもろの意味不明な言葉(情緒)の数々を喜々として取り入れる。はたして、それで何がかたれるのか。だれも彼もが同じ言葉で不自由にされているのに、それを不自由とは気づかない。劣島のあらゆる個所の劣化はとどまるところを知らない。ゆめゆめ巻き添えを食わないように、「コロナ」以上に注意したい。

 現下の「新型コロナ」感染問題、それを偽装とはいわないが、恣意的な情報操作は目に余ります。もうこの島では物事をおのれの都合のよいように「嘘で固める」退廃と堕落が汚い面を上げて闊歩している。上下左右が虚偽と偽装で身をやつしているといいたいほどです。それをマスゴミも嬉々として垂れ流して共犯の列に加わっています。つい先だってまで「五輪はやるぞ」と息巻いていた。どうみても無理筋だったが、なんといおうと、「実施」を貫く姿勢一本やり。海外から「中止」「延期」の声が上がった途端に、「待ってました」と、一瞬にしてその声(外圧)に同調する(抱きついた)。今度は一転して「コロナ」恐慌煽動の過剰報道です。ウイルスがこの間の動向を見ていたのかどうか。「中止」が決まった直後に「大量発生」するという図式が描かれています。五輪もウイルスも「金儲け」「自己主張」「自己宣伝」の絶好のチャンスだぜ。右に倣ったり、左に倣ったり。「菌糸のように絡まり合う全体主義でもあり」、とまるで辺見氏は二十年も前に今日の構図を透視していたようです。

 面倒なことは言わないが、クルーズ船騒ぎから一貫して「当事者」に都合のいいように情報操作がなされてきました。「政府」「官僚」「報道」「医師会」その他有象無象。この数日の「感染者数」の増大はどうだろうか。検査数を増やせば感染者も増える。その中で「(加療が不可欠な)患者」はどれくらいいるのか。(註)医療崩壊だ、都市封鎖だとほざいて、いったい誰が利益を得ているのか。ウイルス禍により、不運にも「重体」「重篤」あるいはそこから「死」に至った人たちにぼくは哀悼の意を心より表しますが、この惨状を自己利益のために勿怪の幸いと暗躍している輩(やから)が憎い。「火事場泥棒」の上前を撥ねようとしているんだから。

 「鵺のような全体主義のなかに溶解してしまわない強固な『個』を鍛えて」いくために、わたしたちはどうすればいいのか。

(註)4月4日20時30分現在の数値。(入院者数=817人、その内の軽・中症者数=795人、重傷者数=22人)(東京都HPより)795人の大半は自宅待機、または借り上げホテルに「隔離」と某女はいっています。「医療崩壊」が生じるというのはどこの島や国の話ですか。検査数も恣意的ですね。医師会は「医者にかかるな」と言っていました。医者的政治家がソロバンをはじいています。体調不良を訴えている人間を診察拒否する医者とは何者なんだ。その他、もろもろの愚策の画策で使われようとしている税金が何兆、何百兆円になるのか。(参考までに、本劣島で、2018年にインフルエンザで死亡した人は3325人、19年も9月までに3000人超でした)(厚労省発表)。「コロナ」に対して、警戒や注意はしなければならないが、それはだれかに言われたからではない、「自己防衛」の必要からです。危機に際して、そこから脱出する気力と努力を放棄しないことだ。そのうえで、言いたい、ともかく人民をあおるような、さらには虚仮にするための似非情報は流さないでほしい。「一家にマスク2枚」で200億円とは、だれの懐に入るんだよ。「お肉券」「お魚券」って、いったい誰が儲けるんですか。税による「買収」がまかり通っているのです。「コロナ」は千載一遇の好機にとたくらむ奴らを許してはならないね。

 鵺(ぬえ)は夜行性か昼光性か?おそらく、夜昼えらぶところなく、暗躍し、跋扈(飛来)するのかね。鵺に負けない個をと、いわれるけれど、正直なところぼくは闘いたくないね。鵺のいない「別乾坤」に遊びたいね。