

表現の〝デキレース〟
3・11以後、わたしはいくつかの新聞のインタビューを受けました。「日本はどうなると思うか」「日本はどのように再生すべきか」といった質問をよくされました。生来ひねくれ者のわたしは、記者の言葉からして鬆(す)のたったダイコンやゴボウみたいに感じて不愉快になり、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」などとまぜかえしました。
すると若い記者らは一瞬あきれ顔になって、聞こえなかったふりをするか、または「本気か」と問うてきたりするので、反射的に「本気だ」と答えたのですが、わたしのそうした応答は、案の定、新聞に一行も載ってはいないのでした。

わたしはいまさらなにも驚いていません。記者たちは無意識に現実の世界を、だれに命じられてもいないのに、修正しているのです。取材対象にたくさんしゃべらせて、自分の世界像に合う部分のみで、記事をつくります。新聞、テレビ、の「街の声」くらいいいかげんなものはありません。「日本はこの際いっそ滅びてみてもよいのではないか」。そのような声は、検閲制度がないにもかかわらず、あったとしても、ないことにされてしまいます」(辺見庸『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』(NHK出版新書、12/01月刊)

「デキレース」を強いるのは「学校」であり、「教師」です。だから、教えられたままに、企業人になってもデキレースの感覚が抜けきらないのだ。「あっても、ない」「なくても、ある」という虚飾の瀰漫。この島社会のどこ(会社・官庁・町内などなど)にいっても、きっとそこには「教師」がいて「生徒」がいる。会社が学校であり、役所が学校であったりするのです。行儀よく、言われたままに。おい、それだけが美徳かよ。
テレビも新聞も、あるいはネット上の新ネタも「鬆(す)のたったダイコンやゴボウ」のように、たちまち干からびたペラペラの言辞や記号(皮膚感覚零)という名の瓦礫(がれき)の山と化す。時代は速度をあげてさらに降下を続ける。どこかに衝突して止まるのだろうか。衝突などしないのだろうか。