今週のことば(20/03/29)

 社会と国家(政府)について

 社会はどんな状態においても有り難いものであるが、政府はたとえ最上の状態においてもやむをえない悪にすぎない。そして最悪の状態においては耐えがたいものになる。なぜなら政府のない国でなら生じるかもしれないような不幸を、政府によって味わわされ、悲惨な状態にさらされるなら、苦しみの種をみずからまいたことを反省することによって不幸な思いが増大するからだ。政府は、着物がそうであるように、罪を犯した印である。国王の宮殿は楽園の住みかの廃墟の上に建てられている。なぜなら良心が確実に規則正しく働き、その命令が素直に守られているなら、良心のほかに立法者などは必要ではないからだ。しかし実際はそうではないので、持っているものの一部を放棄して、残りのものを保持する手段を講じなければならないことがわかってくる。その際人は、いつも同様に思慮分別を働かせて行動する。つまり、二つの悪の中から小さい方を選べという忠告を聞こうとする。したがって安全こそが政府の真の意図であり目的であるので、その形態はどうであれ、最もよく安全を確保できる政府が、また最小の費用で最大の幸福をもたらしてくれるような政府がなにより結構だ、ということはわかりきったことである。(トマス・ペイン『コモン・センス』)

 「政府の意図や目的を明確に知るために、地球上のかけ離れた土地に移住して孤立した生活を送っている少数の人々のことを想像してみよう。その場合かれらは、どこかの国または世界最初の移民の例になるだろう。かれらは自然の自由な状態におかれているが、まず最初に社会をつくることを考えるだろう。非常に多くの動機から、かれらはそのような考えを抱くようになる。一人の力では欲望を満足させることはできないし、また精神的にいつまでも孤独に耐えられないので、間もなく他人の援助を求めねばならなくなる。そして他人のほうもまた、同じように援助を求めるようになる」

 「こうして新来の移民はやがて引力に引かれるように、必要に迫られて社会をつくるようになる。そして互いに全く公正に振る舞い続けているかぎりでは、相互の幸福尊重が法や政府に対する服従義務にとって代わり、これを不要とするだろう。しかし悪徳に負けない者は、神以外にはない。したがって移住したときの最初の困難―これがかれらを提携させたのだが―に打ち勝つにつれて、互いに義務や愛情を忘れ始めるのはやむをえないことである。そしてこの怠慢から、ある形の政府をつくって徳行の不足を補わねばならないことがわかってくる」

 現下の島の状況は「社会と国家(政府)」の問題(関係)を考える格好の事例をを提示しています。それにしては「国家の代表」がお粗末すぎるし、もともとその地位にいること自体が犯罪に等しいのだから、人物を問題にするのではなく、制度や関係を考える材料にしたい。人民を苦しめる「政府」なんぞあってはならないのですが、ほとんどの「政府」は人民を困らせたり苦しめたりします。それにとって代わるようなものをつくりだしても、おなじように苦しめたりだましたりして、人民(国民)を貶めるばかりです。その典型は「死刑」制度でしょう。(それはまたの機会に)

海はだれのものか

 悪い政府はないほうがいい。「いい政府」なんてどこにもない。だとしたら、自分たちで治められる小さな単位の社会(小集団)が望ましいものとなります。「自治」は「自治会」などという具合に、のんきに語られるのですが、なかなかどうして、最高の統治形態なんですよ。この島を三十でも五十でも、あるいは三百でも五百でも、つまり今の地方自治体(公共団体)を基礎単位とした「社会」がそれぞれにふさわしい独立した「統治機構」を工夫するのが急務でしょうね。「政府の国家」や「官僚の国家」なんて悪夢でしかないし、そのお手本(悪い見本)に「天皇の国家」がありましたから。「国家」はあかん。「公共」は「私」が寄り集まって作るもの。国民などという籠(過誤)の鳥じゃないんですね。(「国家・国民の代表」だというほどのバカはいないね)