

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
石も木も眼に光る暑さかな 去来『泊船集』
ほととぎす大竹藪を漏る月夜 芭蕉『嵯峨日記』
冷やかに人住める地の起伏あり 飯田蛇笏『心像』
八月七日(金)は立秋です。ここに芭蕉の「嵯峨日記」からの一句を挙げました。嵯峨はぼくの故郷でもあります。この嵯峨の小倉山のふもと、「落柿舎」に去来を訪ね(元禄四年)、交友をさらに深めた芭蕉。今はすっかり化粧を施して見違えるようになった落柿舎。小学生の頃は、例によって出入り自由という風情で、朽ちかけた廃屋のような庵に、ぼくは何度も出かけたものです。この近所には寂聴庵もあり、近年はこちらの方がはるかに殷賑を極めている様子です。この当時の去来庵は「門前雀羅を張る」という、閑散とした佇まいだったかもしれない。ここからはきっと、嵐山は一望できたはずです。この折に、芭蕉が詠んだ句を。昨年は「大井川」も大荒れで、渡月橋も危機一髪で流失を免れた。今年は、「観光地」を休んでいる嵐山は、昔の静けさを取り戻している。(右上の写真(像)は去来)

五月雨の 空吹き落せ 大井川
六月や 峰に雲置く 嵐山
去来のいう「暑さ」は、この島社会を茹でるがごとくに熱している、今風のねちゃつく「暑さ」というよりは「熱さ」とは趣はまるで違います。「眼に光る暑さ」とはどういうものか。透き通っている風情が実感できそうにさえ思います。芭蕉の句にある「大竹藪」は野宮神社のそれかもしれない。この時期、ほととぎすの鳴き声はひときわさえているのが、ぼくの耳にも聞き取れます。(今春は初鳴きが遅くて心配しましたが、いまなお透き通るような力強さで鳴いています)自然界の摂理とはなにか、難しいことはわかりませんが、ほととぎすが季節を謳うのもまた、無条件の自然の流れです。いったいどれくらい長く、この鳴き声を響き渡らせてきたのか。三句目の蛇笏、けっして人心に阿らない甲斐の国の盤石の姿を讃えたものか。「冷ややかに」というのは、立秋を過ぎた山間の秋冷の気が横溢するさまと、ぼくは受け止めたい。

●「嵯峨日記」=俳諧日記。芭蕉著。1巻。1691年(元禄4)成立。同年4月18日より5月4日まで嵯峨にある向井去来の落柿舎に滞在した際の日記。芭蕉の発句11,門人の発句14,付合2をも収める。交遊と独居の描写が主で,旅の日記文学紀行に対し,庵住生活を描いた日記文学を目ざしたものであろう。主題が,庵住独居の楽しみ,また伝統的隠逸思想へつながる喜びを述べることにあったことは,〈客は半日の閑を得れば,あるじは半日の閑をうしなふ〉〈人来たらず,終日閑を得〉など,木下長嘯子(ちようしようし)のことばの引用からもうかがえる。(世界大百科事典 第2版の解説)(20/08/05)
_____________________________________________________
