露の世は露の世ながらさりながら

 表句は一茶のもの。娘のさとが天然痘で亡くなった(文政2年)、その悲しみとやり切れない思いを「露のようにはかない世間だと知ってはいるが」、でもどうしようもなくやりきれない「露のようにはかないいのちなんだ」と、と悲嘆に暮れている。「おらが春」に収められている句です。彼は多くの子どもに恵まれたが、そのすべてを、幼くして亡くしている。作られた俳句には、彼の正直すぎる感情・激情が迸(ほとばし)り出ているように思う。大変な俳人だったとぼくは考えているが、世にはなかなか厳しい評価が付いて回っている。「あれが俳句?」とまで言われたところで、一茶にはいかんともしがたい「表現の方法」だったでしょう。これまでも、何度か一茶に触れてきましたが、あくまでも彼の句を、この上なく好む一素人の駄文録に過ぎません、悪しからず。

       こぞの五月に生まれたる娘の一人前の雑煮膳を居へて                      這へ笑へ二つになるぞ今朝からは 文政二年正月一日 (「おらが春」) (文政元年五月(一八一八年)に生まれたさとは、この年の六月「天然痘」で亡くなる) 

 楽しみ極まりて愁ひ起るは、うき世のならひなれど、いまだたのしびも半ばならざる千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑り子を、寝耳に水のおし来るごとき、あらあらしき痘(いも)の神に見込まれつつ、今水濃(膿)のさなかなれば、やおら咲ける初花の泥雨(でいう)にしほれたるに等しく、側に見る目さへ、くるしげにぞありける。(略)きのふよりけふは頼みすくなく、ついに六月廿一日の蕣(あさがお)の花と共に、此世をしぼみぬ。母は死皃(しにがほ)にすがりて、よよと泣くもむべなるかな。この期に及んでは、行水(ゆくみづ)のふたたび歸らず、散花(ちるはな)の梢にもどらぬくひごとなどと、あきらめ皃(かほ)しても、思ひ切りがたきは恩愛のきづな也けり。(右は「おらが春」小林一茶自筆稿本斷簡)                                            

 露の世は露の世ながらさりながら  一茶 (「おらが春」)

 一茶について、まず、ここは金子兜太さんに御一任しておきたいですね。金子さんは、まあ言ってみれば、俳句の世界の自由人であったし、あらゆる方面でも、言うべきことを貫いた人でした。彼の揺籃時代の地である埼玉県皆野町には何度か出かけ、その地の温泉に身を沈めたこともありました。ぼくの後輩の出身地でもあり、ことのほか親しみを覚えていた土地でした。金子さんは、しばらく前までは「自分は死なない気がする」と言われていたほどに元気で、ほんとに「永生・不滅の人」じゃないかと思ったこともありました。でもさすがに兜太さんも「人の子」、九十八歳で逝かれました。彼の読み解く一茶や山頭火、いろいろと学ぶべきところがたくさん出てきます。(ここでは、内容については触れませんが)

 一茶は生涯に、約二万句を作ったとされます。暇人のぼくでも、まだまだ数え切れていませんね。十五歳で出里し、継母との折り合いの芳しからぬことを気に病んだ父親が進めて、江戸に出ます。以後、いろいろなところに出入りしつつ、やがて俳諧に一筋の明かりを見出すのです。詳細は年譜(金子兜太筆)に譲りますが、継母や弟との間で遺産相続問題が生じ、大いに苦悩したのでした。それでもなお、俳句の道を歩くことを止めることなく、それなりの核心(俳心)をつかんで帰郷します。ある研究者に言わせると、一茶は自分が作った句を「排泄した」とまで貶めるような表現を使っていますが、その真意はどこにあったか。このことについても、どこかでわずかに触れておきました。

 なぜ一茶が好きか。うまく説明はできません。もちろん下手な説明さえもできそうにありません。どうして嫌いなのと訊かれれば、ぼくは滔々と語るでしょうね。好き嫌いといいますが、好きになるエネルギーと嫌いになる感情は、同じなんでしょう、でも、やや質が違うように思います。意識のベクトルの方向の違いです。彼の句に「わが星は上総の空をうろつくか」があります。それを読むたびに、彼に対する慕わしさと愛おしさを感じる度合いが強くなってくるのがわかるほどです。彼は、終生孤独を託(かこ)つ運命にあったようです。だからこその「二万句」だったかとも思ったりします。彼には「俳句」は同行二人、無二の友だった。田舎俳句などと揶揄され、都会人などからは「椋鳥(出稼ぎもの)」と蔑まれた一茶の人生が、どのようなものであったかと、わが身に引き寄せて把握しようとすると、涙が出るほど哀れを催してくる。ぼくみたいな「へそ曲がり」としてはいささか珍しいことで、(一茶以外の)他の人には決して感じられないものがあります。句を作ることは、一茶にとっては「吐息」「溜息」「嘆息」あるいは「激白」であったかもしれません。過酷ともいえる運命に弄ばれつつも、時には切り返し、あわやの時には「打っちゃり」まではかって、みずからを立て直すのです。よくぞ生きた六十余年だったといいたいですね。

 晩年は、どこの誰とも似たような孤独と老境の淋しさに囲まれますが、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」とばかり、周りを煙に巻いてでも歩きとおした人ではなかったか。土から生まれ、そして土に帰った一茶でした。

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● 金子兜太(かねことうた)(1919―2018)=俳人。父は俳人金子伊昔紅(いせきこう)(1889―1977)。埼玉県小川町で生まれ、秩父(ちちぶ)の皆野町で育つ。旧制水戸高校在学中に句作を始め『成層圏』『土上』『寒雷』などに投句。東京帝国大学経済学部卒業後、海軍主計将校としてトラック島(現、チューク島)に赴任。第二次世界大戦後復員、日本銀行に入行。組合運動に活躍した。1946年(昭和21)、同人誌『』の創刊に参加、社会性俳句運動の主論者となり、「社会性は態度の問題である」などと論じた。引き続き「銀行員等朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく」「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」などの句に代表される前衛俳句運動の旗手を務めた。1961年『造型俳句六章』を書き、ものと作品との間に創(つく)る主体を置くことを提唱した。1962年『海程』を創刊、代表同人となり、のちに主宰となった。一茶、山頭火(さんとうか)などを論じながら放浪漂泊の再評価に取り組む。1988年紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。1992年(平成4)日中文化交流協会常任理事就任を機に訪中を重ね、「天人合一」の考えを知り共鳴、郷土、自然への関心を深めたが、やがて秩父の狼(おおかみ)に象徴される産土(うぶすな)の地霊との交感のなかに自己の原点をみるようになった。「おおかみに蛍が一つ付いていた」が代表句になる。2002年、『東国抄』(2001)により第36回蛇笏(だこつ)賞を受賞。主要句集に『少年』(1955)、『蜿蜿(えんえん)』(1968)、『金子兜太全句集』(1975)、『遊牧集』(1981)、『詩経国風』(1985)、『両神』(1995。詩歌文学館賞受賞)などがあり、全作品から精選した『金子兜太集』(全4巻、2002)がある。(ニッポニカ)

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● 一茶(いっさ)(1763―1827)=江戸時代の文化・文政期(1804~30)に活躍した俳諧師(はいかいし)。本名は小林弥太郎。北信濃(きたしなの)の柏原(かしわばら)(北国(ほっこく)街道の宿場町。長野県信濃町)に生まれる。15歳(数え年)で江戸に出たが、晩年は生地に帰住した。父の弥五兵衛は伝馬屋敷一軒前(てんまやしきいっけんまえ)の中の上の本百。3歳で母くにを失い、継母さつがきて、義弟専六(せんろく)(のちに弥兵衛)が生まれたことが、離郷の原因とみられている。29歳で葛飾(かつしか)派(江戸俳諧の一派で田舎(いなか)風が特色)の執筆(しゅひつ)になるが、それまでの事情はほとんど不明。この年帰郷しのちに『寛政(かんせい)三年紀行』にまとめるが、それ以後のことは一茶自身の日録風の句文集(『七番日記』など)などにより承知できる。一茶はメモ魔のごとく記録をとっている。

 寛政4年から6年間(1792~98)、亡師竹阿(ちくあ)の知人門弟を頼りに、京坂、四国・中国の内海側、九州北半分(長崎まで)を遍歴し、五梅(ごばい)(観音寺)、樗堂(ちょどう)(松山)、升六(しょうろく)、大江丸(おおえまる)(大坂)、闌更(らんこう)(京都)などの有力俳諧師に接し、読書見聞の記録を残す。西国修業の旅だった。しかし、江戸に帰っても宗匠(そうしょう)にはなれない。そのため、葛飾派関係の人の多い、下総(しもうさ)(千葉県北部と茨城県の一部)、上総(かずさ)(千葉県中央部)を歩き回って、巡回俳諧師として暮らすしかなかった(「わが星は上総の空をうろつくか」)。39歳のとき父死去(のちに『父の終焉(しゅうえん)日記』を書く。「父ありて明(あけ)ぼの見たし青田原(あおたはら)」)。そして、「椋鳥(むくどり)」(冬季出稼ぎ人の綽名(あだな))とからかわれ、支持者夏目成美(せいび)(札差(ふださし)で著名俳人)との心の通いもしっくりしない江戸暮らしに、ますます孤独を覚え(「江戸じまぬきのふしたはし更衣(ころもがえ)」)、やがて、頑健な体にも衰えを感じ始めて、巡回旅の不安定が身にしみてくる(「秋の風乞食(こじき)はを見くらぶる」)。かくして、柏原帰住を決意した一茶は、江戸と柏原の間を6回も往復して、ついに継母義弟に、父の遺言どおりの財産折半を実行させる。また帰住前後を通じて、長沼(現長野市)の春甫(しゅんぽ)、魚淵(なぶち)、紫(むらさき)(現高山村)の春耕(しゅんこう)、中野(現中野市)の梅堂(ばいどう)、湯田中(ゆだなか)(現山ノ内町)の希杖(きじょう)をはじめ、柏原周辺から千曲(ちくま)川両岸にわたる地域の力ある門弟を多数得る。50歳で帰住(「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」)。(右上写真は兜太さん)

 52歳で結婚(初婚)。門弟のところを回り歩き、ときには江戸に出て、親友の一瓢(いっぴょう)、松井(まつい)、さては利根(とね)川畔の鶴老(かくろう)の寺に泊まったりしているが、3男1女の全部を失い、妻きくまで失う。後妻ゆきとも3か月で離婚。やをを妻に迎えたのもつかのま、その翌年は大火にあって、土蔵暮らしとなり、文政10年11月19日、三度目の中風で死ぬ。娘やたは次の年に生まれた。それでも、最初の中風回復のあとは、「今年から丸まうけぞよ娑婆遊(しゃばあそ)び」とか、「荒凡夫(あらぼんぷ)」などと書いたりして、自由勝手な生きざまに徹し、「花の影寝まじ未来が恐ろしき」とつくって、いつまでも生きたいと願っていたのである。柏原に一茶旧宅(国指定史跡)がある。[金子兜太・解説](ニッポニカ)

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 一茶の「露の世ながらさりながら」に触発されたわけでもなく、ぼくは小さい時から「露草」が好きでした。これでも、小中学校時代、家で育てた草花を切り花にして、学校に持って行ったことが何度もあるくらいに「花が好き」な少年でした。おそらくおふくろの影響が大きかったようですが。その露草、目立たない、草花の中でもひとしお地味ですが、その花の紫たるや、しびれが来るくらいに「清楚」「可憐」「凛然・凛乎」として、その滋味は掬(きく)すべきものがある。出しゃばらないのに、自分ができているとでもいおうか。表現はどうでもよろしい、この可憐な茎や幹や花弁を見るがいい。菫(すみれ)と、その静かさには肩を並べるものがあります。

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● つゆ‐くさ【露草】〘名〙① ツユクサ科の一年草。各地のやや湿った路傍や小川の縁に群がって生える。高さ一五~三〇センチメートル。茎は分枝し、下部は地にはう。葉は長さ五~七センチメートルの卵状披針形で、基部は鞘となって茎を抱く。夏、たたんだ編笠状の苞葉から突き出た青紫色の二花被が見えるが、これは花序の中の一つの花である。花は一日でしおれる。和名は、露を帯びた草の意で、古くは「つきくさ」といい、摺染(すりぞめ)や青花紙に用いた。漢名、鴨跖草。ぼうしばな。あおばな。あいばな。はなだばな。うつしぐさ。ほたるぐさ。《季・秋》※宇津保(970‐999頃)国譲下「御ともの人は、うすいろのあを、つゆくさしてとほやまにすれり」② 植物「なるこゆり(鳴子百合)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕③ 「つゆくさいろ(露草色)」の略。※延喜式(927)一五「鴨頭草木綿廿枚」④ 露。また、露の置いた草。※浮世草子・好色二代男(1684)六「夢虫の命惜まれ、朱骨(しゅぼね)の地紙に取うつし。露草(クサ)をそそぎ、次第によはるをなげき」(精選版日本国語大辞典)

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 その「ツユクサ」を読み込んだ句をいくつか、脈絡もなく並べておきます。最後の一句は、「露」そのものが主題になっています。ぼくが最も好む一茶の中の大好きな句でもあります。「露命」などと言われます。「露のようにはかない命」の謂いで、短いうえにも短い、そんないのちの「儚(はかなさ)」が、悲しさと労(いた)わりの想いをもって読まれているのです。それぞれの句の鑑賞は、「己(おの)がじし」ということにしておきます。断るまでもありません、「露草」は秋の季語です。ぼく一人の心情では、すでに「今はもう秋」なんですね。「誰もいな海」か?

露草の露千万の瞳かな(富安風生) ・露草の葉に露草の涙かな(西村和子)

蛍草のそのやさしさへ歩みけり (加藤楸邨) ・ことごとくつゆくさ咲きて狐雨(飯田蛇笏)

石やさし露草の花ちりばめて (山口青邨) ・草深に露命を維ぐ秋日和 (日野草城) 

・秋の日に露命を影す道辺草 (飯田蛇笏) ・露の世は露の世ながらさりながら(一茶)

HHHHHHHHHHH

 あまりにも殺風景で、一歩足を踏み入れた途端に「興覚め」する、そんな拙庭にも、この「ツユクサ」は、時を忘れずに咲いてくれます。あちこちに清楚で可憐な「紫」「紫紺」を見せてくれている。この植物にも種類はいくらもあり、微妙な形姿の違いがあるようです。しかし、ぼくはほとんど頓着しないままに、この花がいかにもささやかでもありながら、深い紫いろに込められた「花のいのち」を愛で、何事かを偲ぶようにしている。何を偲ぶか、今となれば語りがたいのですが、生後数年の間の「別乾坤」に生きていた自らの「儚さ」であると、まずは言っておきます。それ以降はまるで「露命を繋いで」、ここまで歩きとおしてきたのです。生意気を言うようですけれども、すでに、ぼくは長く生き過ぎたようにも感じている。一茶小林弥太郎さんはいつしか、遥かの「年下の男の子」になりました。

 二百年近く前に生きて死んだ一茶にとって、「露の世は露の世ながら」ではありました。うたかたの泡沫のようにはかない人のいのち、否、すべていのちそのものは「露の如く」であることに変わりはなかったし、その真理は今もなお、ぼくたちの「露の世は露の世ながら」に妥当します。誰だって、いつかはきっと「露命」を直観するものですが、いつとはなしに「露命」を超えて「名誉ある人生」を得たいとする、邪(よこし)まに通じる欲望が騒ぐのです。どんなに「この世は儚い」と知っていても、いざという急場に及び、危殆に瀕して、それにしても、「露の世ながらさりながら」と後悔や悲嘆の愁いに臍(ほぞ)を噛むのでしょう。

・秋の蝉生死草木と異ならず( 飯田龍太) ・海に青雲生き死に言わず生きんとのみ (金子兜太)(2022/07/13)

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