
荒れ放題の拙庭にも、アジサイがかなりの数、なんとか今を盛りに茂っています。その多くは日当たりがよくなく、おそらく土もやせているのでしょう。にもかかわらず、いや、だからこそ、それなりに花をつけて季節の趣を教えてくれる。ほとんど手入れなどはしないで放置しています。時に大きく伸びた幹を思い切って切ることはしますが、肥料などもあまりやらないという、見事にものぐさな庭師ですね。いろいろな人の庭づくりを見たり読んだりして、ぼくもそれなりに作庭を試みようという気にもなりかけるのですが、いつだってそれを果たさないままで季節をやり過ごしているのです。
若いころには思想家の林達夫氏のバラの庭(鵠沼)にいたく感心し、偉い学者は庭づくりでも「本物」なのだと変に心を動かしたことがあります。また本格的な庭造り(植物や野菜を含めて)に関して、熱心に学んだのはヘルマン・ヘッセでした。かれはスイスに移住して、広大な土地を庭や畑にして、思う存分の農作業を続けていたのでした。また、時には、庭の一隅から臨む景色を水彩やスケッチに写し取るという、これまた見事な趣味を育てていた。庭仕事にはいくつかの効用があるようですが、ぼくにとっては、心身のリラクゼーションというものです。勤め人をしていたころ、毎日多くの人と接し、それなりにストレスを蓄積するような生活を続けていましたが、そんなときでも、家に帰り、猫の額にも満たぬ庭(土)を眺めているだけで、心が穏やかになるのが明らかに感じられもした。

水無月も半ばを迎えようとしています。十日足らずで「夏至」です。各地から花便りが届きますが、やはり何と言っても「アジサイ」であり、「梔子(くちなし)」であり、花菖蒲であり、…。梅雨空のもとに、さまざまな花々が命の洗濯をしているようにも思われます。拙庭には、朽ち果てる寸前の小さなバラや野生のバラ(のいばら)が思い思いに花をつけ、自らのかすかな存在を明かしてくれています。これまでにも「薔薇(ばら)」には凝った(ハマった)ことはなく、あるかなきかの、みすぼらしい幹と花ばかりが、このむさくるしい庭に見合っているようにも思えてきます。バラやボタンなど、見事な花を見るのは嫌いではありませんが、そのために水以上に消毒液を掛けるのは、どう見てもやりきれないのです。除草剤や害虫駆除剤を使わなければ、当然のように虫が蔓延り、草はぼうぼうと繁茂してくれます。それを、ときには、額に汗して手作業で取り除くのですから、気が遠くなるような仕事にはなるのです。

・紫陽花の何に変るぞ色の順(子規) ・雨に剪る紫陽花の葉の真青かな(蛇笏) ・紫陽花や身を持ちくづす庵の主(荷風) (いかにも「思わせぶり」な艶っぽい句と鑑賞できますが、いかがでしょう。荷風という文人は一筋縄ではいかない方でしたね)
アジサイに関しては、どこかでも少し触れていますが、植物学者の牧野富太郎さんの説に、ぼくは従うことにしています。その「植物一日一題」の中で彼は書いています。紫陽花とは、白楽天によれば、単に紫の花が咲く植物で、それをいかにも「アジサイ」にしてしまったのは奇怪であり、早とちりに他ならないといわれる。このような錯覚(間違い)は他にもいくつもあるようで、それで俳人や歌人、あるいは生け花系の職人はなんとも思わないとは、情けない話だと、ぼくも牧野さんの背中越しに、そんなことを考えたりしています。

「私はこれまで数度にわたって、アジサイが紫陽花ではないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓(こうこう)に入った病はなかなか癒(なお)らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾で倒れてゆくのである。哀れむべきではないか。そして俳人、歌人、生け花の人などは真っ先に猛省せねばならぬはずだ」「元来アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではないから、…とにかくアジサイを中国の花木あるいは中国から来た花木だとするのは誤認のはなはだしいものである。そしてこのアジサイを日本の花であると初めて公々然と発表したのは私であった。すなわちそれは植物学上から考察して帰納した結果である」(牧野富太郎「植物一日一題」ちくま学芸文庫版、2008年刊)

● 牧野富太郎(まきのとみたろう)(1862―1957)=植物学者。土佐国(高知県)佐川(さかわ)村(現、高岡郡佐川町)の酒造家の生まれ。幼くして父母、祖父を失い、祖母に育てられ、6歳で明治維新を迎えた。9歳のとき寺子屋に入り、植物に興味を覚え始めた。1872年(明治5)寺子屋廃止に伴い藩校の名教(めいこう)館に入りヨーロッパの科学に接した。2年後、学制発布に伴い名教館は廃止となり、新制の小学校に入学(12歳)。2年間で教程を終えて退学、植物の調査・採集に熱中した。1879年、17歳で師範学校教諭永沼小一郎(ながぬまこいちろう)に師事、近代科学の精神について自覚、本草(ほんぞう)学から植物分類学へと転進、1881年、東京で勧業博覧会を見学の際、田中芳男(たなかよしお)に面接、東京大学植物学教室を訪ね、標本と海外の文献に接した。郷里に帰り理学会を創立、科学思想の普及に努めた。

1884年、再度上京、東京大学教授の矢田部良吉に認められ植物学教室に出入りを許され、植物分類学の専門的研究に没頭した。1888年『日本植物志図篇(へん)』創刊。以後、精力的に新植物の発見、命名、記載の業績を積み、植物分類学の第一人者となった。1890年、一時、教室出入りの差し止めを受けるなど圧迫があったが耐え、1893年帝国大学助手、1912年(明治45)講師となる。教務のほか、民間の植物同好会による採集会を指導し植物知識の普及に尽力し影響を残した。1927年(昭和2)65歳で理学博士、1939年77歳で退職した。1950年(昭和25)日本学士院会員、翌年文化功労者、1953年東京都名誉都民となり、95歳で死去するとともに文化勲章を受章。(ニッポニカ)
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● アジサイ(あじさい / 紫陽花)[学] Hydrangea macrophylla (Thunb.) Ser. f. macrophylla=ユキノシタ科(APG分類:アジサイ科)の落葉低木。高さ1~1.5メートルの株立ちになり、若枝は緑色で太い。葉は対生し、広楕円(こうだえん)形または倒卵形で長さ8~15センチメートル、先はとがり、縁(へり)に三角状の鋭い鋸歯(きょし)がある。葉質はやや厚く、滑らかでつやがある。6~7月ごろ枝先に球状で大形の集散花序に淡青紫色の中性花(装飾花)からなる花を多数つける。4~5個ある萼片(がくへん)が大形の花弁状にみえ、縁に鋸歯が出ることもあり、花弁は小さい。雄しべと雌しべは退化して小さく、果実ができない。ガクアジサイを母種として日本で生まれた園芸品種で奈良時代からあったといわれる。名は青い花がかたまって咲くようすから名づけられた。広く公園や庭園に植えられ、名所が各地にある。(ニッポニカ)
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どんなものにも「名前」がある、名前をつけることで、そのものとの距離を狭めているのです。さらにえば、未知のものに「命名する(naminig)」ことにより、そこから「世界が開かれる」といってもいいでしょう。これは、赤ん坊の生活を見れば一目瞭然です。アジサイは紫陽花ではないといっても、ほどんどの人はその違いを気にしない。どっちだっていいじゃないかというのでしょう。牧野さんの指摘はこのほかにたくさんあります。まるで「犬」を見て「猫」と呼んでいるようで、けったいな話ではあります。ぼくは物知りではありませんし、そうなりたいとも思わない人間です。でも、犬は犬であり、猫は猫であり、赤は黒ではないという程度のもののけじめはつけておきたいと願っている。だから、そうするためにも本を漁ることを止めることができないのです。(右は「杜若(とじゃく)(アオノクマタケラン)」)

「ものを知る」というのは「誰もが知るように」「人と同じように知る」ことを指しますでしょう。感じるとか、信じるというのは「自分流」で一向構わないことです。自分流に信じ(感じ)、他者と同じように「知るに至る」「考える」、そんな方向を間違えたくないですね。「知識」と「信仰」は目指す方向も、使う脳細胞も違うのです。「考える」と「信じる」は、あるいは交わる・重なることはないのでしょう。どういうわけだか、ぼくに今年の梅雨は長引きそうだという予感がありますし、時には「線状降水帯」に襲われ、支配されることがありはしないかと恐れてもいます。
沖縄の梅雨入りは本年は平年よりも6日、昨年より1日早い、5月4日でした、例年の梅雨明けを見ると今月の二十日過ぎです。今年は、沖縄の降水量は大変に多いといわれています。拙宅の屋根の樋には木の葉、竹の葉が山のように溜まっています。晴れの空を見ては少しずつ取り除いているのですが、足腰もおぼつかない老残の身で屋根に上ろうというのですから、狂気の沙汰かもしれません。でも、その老いの狂気を、小さな花々が、大きな声を出すでもなく、穏やかに慰めてくれる。その「花」が終わったら、素人の「植木剪定」が待っていますし、草取りも放置しておけない。しかし、ぼくは頑固一徹、「農薬類」は一切使わないことを「信条」としている。(そうはいっても、よそで使われた農薬は気流などの流れに乗って、我が家にもやってくるのですが)(左は「燕子花(かきつばた)」(2022/06/12)
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