小生のようなところにも「喪中の挨拶状」が届きます。近年は、すっかり付き合いも無沙汰気味で、なんとも礼儀知らずと、旧知の方々に深く無礼を詫びるばかりです。昨日は、奥様の名前で一枚の「喪中挨拶」が配達されてきました。ぼくが勤め先の「役職」(というほどでもない)に誘われた時に、熱心に道案内(手解き)をしてくれた先輩でした。ぼくよりも七歳ほど年上の、ドイツ語の教師でした。本領は現代ドイツ政治・思想研究だったと思う。裏も表もないとはいいませんが、何でも腹蔵なく話せた、ぼくには、稀な先輩でした。
この O 先生とはかなり長くコンビを組んで、荒れ放題(学園紛争時)の大学の状況を回復するためにいささかの時間を共にしたことがあった。子息はぼくの授業に参加していたし、奥様とも何度かお会いしていた。十年近く前に仕事をやめてから、ぼくは一度だって元の職場にいかなかった。友人たちに何度も誘われましたが、心が動かなかった。すくなくとも、この先輩にはお会いして、丁寧にお礼とお詫びをしなければと思いながら、ついに「訃報」が届いたのです。間違いなく、「あいつは付き合いの悪い男だ」と思われていたに違いありません。

亡くなられたのは今年の三月末だったそうです。まだまだ現役の様子で、いろいろと活動されていたことは知らされていました。この人は長生きする質だと勝手に判断していました。「急性大動脈解離」とあった。「突然の死は本人が一番悔しい思いをしているのではないかと思われます」と奥方が書かれていたように、まったく予測しない「死」の急襲だったようです。職を辞められてからも、数冊の翻訳書を出されていたし、「今も仕事をしているんだ」と、封書や葉書をいただくたびに書いておられた。右の「トーマス・マン物語」は三巻本でした。旺盛な仕事ぶりを横で見ながら、自分の堕落した生活をしみじみと感じ入ったことがありました。この先輩とはじつに親しく付き合ったという気もするし、べったりではなく、まるで「淡交」のようでもあったと、悲しみを覚えながら追憶しています。茨城は結城の産で、碁・将棋がプロ級の腕前で、実際にプロの棋士になるつもりだったと聞いたことがある。

無類の酒好きで、ある時期は毎晩のようにいっしょさせてもらった。必ず行きつけの「寿司屋」で、何十年と変わらなかった。ある程度「酔い加減」が出来上がると、きっと奥さんに電話をかけ、それからの二、三十分を楽しく飲んだ。毎晩のように車が迎えに来たのです。ぼくは千葉住まいでしたから、望むべくもありませんでしたが、先輩夫婦の仲の良さには、不思議な気がしたほどでした(もちろん、嫌なことも喧嘩をすることもあったでしょう)。練馬に住んでおられたので、距離的にもちょうどよかったのでしょう。なんでも、何度か大事なカバンや札入れを電車で失くしたことがあったそうです。
辺鄙な環境(田舎)に住んでから、ぼくはさらに偏屈になったと、誰彼なしに思われているようですが、年をとってもノコノコと出歩かないことが礼儀(自分に対する)だと固く信じているのです。そんな偏った考えだから、大事な人とも会わないままで、「葉書」一枚の別れをするハメになるのでしょう。でも、いささか言い訳めきますが、ぼくひとりで「合掌」するに限るとも想っている。今の状況だと、霊前に額(ぬか)ずくことはなさそうです。だからこそ、感謝の念を胸に刻み、深く哀悼の意を届けたいと念じているのです。ある時期から、ぼくは不動の「烏」になったようです。
・何にこの師走の市にゆく烏 (芭蕉)
極月朔日、真に厚情篤かった、大切な先輩の訃報に接したばかりの、小生の偽らざる感懐です。 (2022/12/01)
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