根源的軽蔑のNO

 あの声、ほぼ四半世紀も前のあの女性の叫びを忘れたことはない。それは胸のもっとも奥深くに突き刺さり、私はいまだにその痛みから完全には逃げおおせずにいる。タイ・カンボジアの国境にあったカンボジア難民キャンプに取材に行ったときのことだ。キャンプといってもろくなシェルターもなく、激しい陽光とフライパンのように熱した大地に挟まれて、一万人を超す難民たちが飢え、疲れ、痩せこけ、病み、呻いていた。容体が重篤でも瀕死でも、医師がかけつけるわけでも救急車が来るわけでもない。人々は次々に死んでいった。とりわけ、子どもたちが多く亡くなった。テントのモルグ(死体置き場)は、当然、遺体で膨らみ、いまにもはち切れそうになる。すさまじい異臭ただようそこに、死体を運び込んだり、遺体を並べたり重ねたり消毒したりしている若い女性たちがいた。眼を疑るほど過酷な仕事であった。必死でそれにたずさわっていたのは、いずれもマスクをした若い白人のシスターたちであった。私はその献身的な仕事ぶりを記事にしようと彼女たちにカメラを向けた。

 彼女たちのうちの一人がその行為を見とがめ、私の眼を見据えて「ノー!」と叫んだ。だれもがふり返るほどの裂帛(れっぱく)の叫びであった。いったいなにがNOなのか、わけはいわない。みだりに死者を撮影するなというのか、あらかじめ承認も得ずに彼女たちを撮るなというのか、わからない、わからないながらも、しかし、私にはよくわかった。これは根元的軽蔑のNOなのだ、と。他者の不幸をネタにお金を稼ぐ者への魂の底からの拒否、軽蔑―私はそのように感じとった。彼女の眼がそう語っていたからだ。NOのひとことで私は品性をいいあてられた気がして、その場からそそくさと逃げ去ったものだ。以来、このNOの矢尻は胸に突き刺さったままである。(辺見庸著「あの声、あの眼」『抵抗論 国家からの自由へ』所収。2004年、毎日新聞社刊)

 作家の辺見さんは通信社の記者を長年されていました。北京特派員(ある事件によって現地から追放されたことも)やハノイ支局長歴任。96年に退社後、文筆に専念されます。その間、『自動起床装置』(91年)で芥川賞受賞。辺見さんは上の文章でつづけて言われています。この世界には筆舌に尽くせない、凄絶な不幸があり、それを軽減しようとしたり救済しようとしたりする私利私欲のない人間もいれば、それを報道しようとする人間もいる。自分自身はいつも報道する側に身を置いていたけれども、「そのご都合主義、いい加減さ」をしばしば気に病んできたというのです。不幸を多くの人々に報道することの意味は計りしれないが、幸か不幸か「不幸」はよく売れる。求められるということでしょう。「お涙ちょうだい」なんてこともあるようです。報道者の意識の有無にかかわらず、ついには称讃をねらって「不幸」を求めるようにもなる、と。それを開高健は「ハイエナ・コンプレックス」と呼んだそうです。この「コンプレックス」とはどういう意味なんですか。

 これはなにも報道に携わる人にだけ当てはまることではなさそうです。それが「善行」であるから行うのであって、人から評価され称讃されることを期待して「善行」なるものを行うことはできないでしょう「受け」に狙いを定めて行うだろうが、それははたして「善行」か。すでにそれは経済(計算)であったり政治(集票)であったりする話だと思うからです。ここから自由になることだけが、ぼくの課題だった、と。

 モルグで働く一人のシスターが発した「ノー!」の叫び。「あれは、不幸を絶対安全圏から表現するということの原罪にかかわることなのかもしれない」「私はせめて、あの顔、あの声をいつまでも覚えておこうと思う。そしてわたしのいる安全圏とあの顔、あの声のある場所との心の距離を徐々に縮めていきたいと願っている」と辺見さんは言う。

八百長?

 ひるがえって、ぼくたちの現在を自問してみる。「絶対的安全圏」からぼくたちはものを言いすぎているという卑しい自分にたいして言いようのない憤りと諦念に似た感傷もまたぼくは隠せないのです。マスコミや報道の現実に対して、さまざまな批判や非難が沸き起こりますが、ぼくはあきらめをもっているのではありません。また無関心になり切っているのでもないのです。報道する側の姿勢や視点が、(対象が)権力を持っている相手の場合なおさら、みずからが報道される側(取材の対象側)に取り入り、取り入れられているという仲間意識が生み出す報道の現実に深い軽蔑の念をなおさらにぬぐえない。当事者ではないから断定できないので、「する側」と「される側」が同胞・同士という明確な意識を有しているか否かはいまは問わない。記者クラブ制度や質問の事前通告制など、およそまじめ・まっとうな「知りたい権利」「知らせたい権利」の行使だとはとても考えられないことが日常の隅々にまでいきわたってはいないか。「そのご都合主義、いい加減さ」が強烈な臭気を伴って四辺に充満している。辺見さんが受け止めた「安全圏」が内在させる危険性・野蛮性を甘受する報道・報道陣になにかを期待するのは気が遠くなるような奇跡じゃないでしょうか。

 開高健さんが言ったのとは別種の「ハイエナ・コンプレックス」が猛威を振るっている。密室での感染力は例外を許さないほどに激烈である。人知の劣化、人間性の廃墟化そのままの風景が勢いを増しながら進行中です。(2020/03/03)

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