昭和も遠くなりにけり

2023年3月
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 日本海側では大雪が降っているそうです。この房総の僻地は快晴で、身も心も引き締まってくれるんじゃないかと願うような天気です。しかし、「天気晴朗なれども波高し」と言われます。それと関わりがあるのかどうか、「好事魔多し」と言われてきました。ぼくは学問も常識もない人間ですから、せめて「ことわざ(諺)」くらいはと、かなり真面目にそれを使うように心がけてきました。文章に書くとか、人に話すというのではなく、それを思い描くことで、自らの戒めにしたり、自制心を育てるための警句として役立てようということでした。理屈を言えば切がありません。言いたいことは、「諺」なるものは、一朝一夕になるものではなく、人間集団の長い歴史の積み重ねから育ってきた「手すり」【土留」であり、「擁護癖」のような意味合いを持ってきたのでないでしょうか。

 今時の『流行語」などという浅薄で内容空虚な「紙風船」のようなものではないのです。時間とともに「輝き」(効果)が増す、人はそれをどのように受け止めるか、なかなか含蓄に富む、古(いにしえ)の「言霊(ことだま)」の名残があるようにさえ、ぼくには思われるのです。ここでは何かと詮索はしませんが、ともかく、人間の生活の「知恵」が生み出した、ある種の「武器」にもなってきました。  

 「日露海戦のあさ、帝国海軍主席参謀秋山真之は『アテヨイカヌ ミユトノケイホウニセッシ ノレツヲハイ ハタダチニ ヨシス コレヲ ワケフウメル セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ(解読)敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し』」(右上)と大本営に電文を送った。カタカナの部分は「暗号」です。(参考出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20220527-00297027)ぼくは小学校時代に、担当の教員から、どれほどこの「帝国海軍対バルチック艦隊」の日本海海戦を授業で聞かされたことか。その当時、教師は五十歳は超えていたかと思われますから、日ロ開戦時前後に生まれた世代だった想定できます。なんでいつもこ話題を「海図入り」で語るのだろうかと、不思議な気がしました。その教師は東郷平八郎の熱烈なファンでした。しかし、ぼくにはなんの興味も湧かなかったし、好戦的(喧嘩好き)な人間にもならなかった。当時は、こんな「戦争賛美」の授業が大手を振って罷り通っていたのでした。今だって、怪しいものですね。嫌韓とか嫌中という教師は想像以上に多いのではないでしょうか。

 学校は変わらないし、変えようとはしないが、目には見えない緩さで「先祖帰り」をしてきたことは事実でしょう。まるで明治はという時代は「坂の上の雲」を追いかけて必死になっていた時代だったととらえられ、ある人々は「明治という国家」を恋しく懐い、根拠もなく(だといいたい)懐かしむのです。

 その秋山真之です。四国は愛媛の産で、正岡子規とも交流があった。真之は兄の好古(陸軍)とともに、「帝国軍隊の恩人」とも称すべき人物でした。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の、一方の主人公でもあった人です。この小説は、司馬さんのものでもかなり読まれたもので、おそらく、対露戦争の軌跡のような勝利を懐かしみながら振り返り、そこから、対露何するものぞという気概を抱くようになった「政治家」も五万といるでしょう。若い世代は、なおさら「明治という国家」の持つ進取の精神(脱亜入欧)を、我が精神のように賛美したくなるのかも知れません。「戦勝」の心地よさを我が「誉」のように大事にしているはずです。この日露戦争からも、すでに百二十年近く経過しました。おそらく対米英戦争の「負け戦」の記憶を乗り越えるには「日本海海戦」に戻るべし、と自らを鼓舞しながらの「防衛費倍増」騒動を演じた面々も少なからずいたと思う。空想と空虚が入り混じって、国家運営を損なっているのではないか。またぞろ「一等国」を仰ぎ見つつ、三等国の悲哀を舐めているのなら、まだ救いがありますが。もっと悪質で手におえないのは、「アジアの先進国」だと寝言を言っている連中の抜港ではないでしょうか。時代錯誤、夜郎自大をいまもなおなぞっているという、じつに不思議な国の不思議な輩だといえます。(右写真は秋山真之)

 ここで「戦争」を語ろうというのではありません。「天気晴朗なれども波高し」という雲行きを考えてみたくなっただけです。本日は「天気晴朗」でも、「寒気なお強し」という。北陸や東北・北海道地域には猛烈は寒波が襲来しています。かてて加えて、コロナ禍がなお勢いを増している。欧米でも、やおら「復活」の兆しが見えています。「ゼロコロナ」を捨てざるを得なくなった中国では、大都市圏で猛威を振るうおそれが指摘されている。内外多端の折り、この島社会では「国防論議」が「国防費増額論議」に堕し、税金派と国債派が「鎬(しのぎ)を削る」という八百長芝居に時日を浪費している。「天気晴朗、なお国情騒然」というべきか。国防が、やがては「亡国」にいたる、この極月の大和の国の現身(うつしみ)です。

 降る雪や明治は遠くなりにけり(草田男) この時、中村草田男さんは三十一歳だった(左写真)。この年齢で、「明治がはるか遠くに行ってしまった」という感慨を抱いたのです。ぼくなどにはとてもわからない心境(経験)だったことと思われます。十数年ぶりで、卒業した青南山小学校を訪れた際に痛感した、取り返しようのない「時代感覚」が蘇ったのではなかったか。昭和が遠くなったという時間の観念はぼくにはある。でも悲しいかな、しみじみと「昭和」を感じ入る縁(よすが)はないのです。ここに「元号」論を持ち出す気はありません。この特異な「元号」という符牒は、誰にも理解できるという代物ではないだろうし、まして、「昭和」という「御代」にはいたずらな傷跡が、国の中にも外にも遺された。ぼくは、きっと「感傷派」「懐旧派」ではないのでしょう。いろいろな制約のある中ですから、仕方なしに「元号」を使うことはあります。しかし、あえて好んで用いるということはなかった。司馬さんの顰(ひそみ)に倣(なら)えば、昭和生まれのぼくにとって、昭和とは「坂の下の崖」のような殺伐とした時代だったという印象のほうが強いのです。つかの間の晴れ間はあったが、その殆どは荒天続きだったという想いが強く残っている。

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 ブログの表紙をいくら変えても、中身は相変わらずです。文字通り、徒然(つれづれ)に、行き当たりばったりで、駄文を垂れ流しているという醜態を晒しているだけです。これが、我が正体でもあるのだから、致し方ない。(昨日だったか、京都の友人からメールが届いた。「君は地獄を見たことがないから」という判じ物が書かれていました。たしかに見たことがないし、見たいとも思わない。さいわいなことだと、いまのところは身の僥倖(ぎょうこう)という偶然を、いかにもありがたく受け入れている)(2022/12/16)

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