
石橋湛山前首相(左)と岸信介首相=1958年11月、石橋邸。(*1956年12月、岸を破り自民党総裁に、次いで総理大臣になった湛山。病気のために、わずか65日後に首相辞任。後任に岸を指名し、「岸総理大臣」の「生みの親」となった。これは一代の政治家、石橋湛山における「生涯の汚点」を残したと、ごく一部で評されてきた。筆者(山埜)もそれに同意するものである。あの湛山にして、「そうだったか」「岸と組まなければ、組閣できなかったなら、なぜそれ(総理就任)を拒否しなかったか」「そうであったら、岸は総裁・総理になっていた」と、疑問が尽きませんが、それでも「なぜ、岸にバトンを」という驚き、怪訝でもありました。さらに言えば、「健康管理」に抜かりがあった点も見逃せない。このあたりの経緯については、いずれ述べるつもりでいます)

「第一次世界戦争の際、わが国には欧州出兵論があって、その誓願運動を起こした人もあった。その運動には当時の帝政ロシアから、なにがしかの力も加わっていたようであった。私はこれに対して大正四年一月初号の『東洋経済新報』に「狂せるか欧州出兵論」と題する反対論を掲げたが、幸いにこの運動は物にならず、青島への出兵と、若干の海軍が地中海方面に出動した外は、大規模に兵を動かすことなしにすんだ」(湛山は明治四十二年十二月、麻布歩兵第三連隊に一年志願兵として入営した)
「しかし私は、この欧州出兵運動について、おもしろい事実を一つ発見した。ある時二、三十人の者が集まってこの問題を論じた際、多数は出兵論であった。そこで私は最後に、一体諸君の中に欧州出兵の場合に、自ら出征しなければならない人はだれかと聞いて見た。しかるに、予想したことではあるが、その中には私の外、軍籍にある者はひとりもなかった。すなわち彼らはいかなる戦争が起こっても(当時の戦争の状況では)自分は安全の者ばかりであって、いわば他人のごぼうで御斎(おとき)をする主張をしているのに外ならなかった。私はこのことを指摘して、とにかく私だけが諸君の犠牲になって、戦争に行って死ぬのはいやだといったら、彼らは一言もなかった」

「自分が戦争に行くのがこわいから、あるいは自分の子供や身内を戦争で死なすのはいやだから、戦争に反対だなどという議論は、もちろんそれだけでは議論にならない。しかしもし世の人がみな戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いないと、当時私は痛切に感じた」(「軍隊生活」『湛山回想』(岩波文庫版)に所収)
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彼は、その「戦争」で次男を戦死させています。(昭和十九年二月。二十六歳でした)その死に接して、湛山は「此の戦い、いかに終わるか。汝が死をば、父が代わりて国の為に生かさん」と誓った。彼はここ(非戦の立場)においても「プラグマティスト」だったといえます。自分を棚に上げて、戦争反対、あるいは参戦せよ、いろんな主張は際限なく膨張するに違いありません。「自分は安全地帯」にありながら、中国をやっつけろ、韓国をつぶせと勇ましい限りです。湛山が与しなかったのは、そのような軽薄な烏合の衆であったといっていい。一旦緩急あれば、間違いなく、大衆は付和雷同する。(ぼくもまたその「大衆」です。棚から降りています。でも「大衆という塊」の一部ではなく、「一人の大衆」を具現して存在したいと念願してきました)湛山から何を学ぶか。
近年にあっても、なにかにつけ石橋湛山が語られてきましたし、今も語られ続けています。なぜか、はっきりとした理由があります。この雑駁な文章で、追々、その理由などについて述べていくつもりでいます。上首尾とはいかないでしょうが。異数の人だったと、ぼくひとりだけでも評価しておきたい。自慢するのではなく、浩瀚な湛山全集の紙背に両の目を光らせるように、いったいどれほど読みつづけてきたことか。一人の湛山がいた意味を認め得たことは、一人の悠々の存在を知るのと同じほどに、ぼくにはかけがえのない経験でありました。

彼は終生、「言論人」として生き抜いた人であり、それは政治家になった後でも変わりませんでした。言論の自由がおかしくなり、あたかも自己崩壊を起こしているような末期症状にあって、なお「言論の自由」を確かなものにし、権利としても義務としても主張するべき主張を持つことがきっと期待されている言論人の存在に照らして、現下の堕落と頽廃を傍観するに忍びない人々が多くいるということの証でもあるでしょう。ぼくも「ささやかに」かつ「もたつきながら」をモットーにして、折に触れて、湛山の驥尾に付していきたいと念じているのです。(2020/09/28)
●プラグマティズム(pragmatism)=1870年代の初めアメリカの C.パースらを中心とする研究者グループによって展開された哲学的思想とその運動。ギリシア語のプラグマから発し,プラグマティズムとは,行動を人生の中心にすえ,思考,観念,信念は行動を指導すると同時に,逆に行動を通じて改造されるものであるとする。そして行動の最も洗練された典型的な形態を科学の実験に求め,その論理を哲学的諸問題の解決に応用しようとするもの。代表的哲学者は,パースをはじめ W.ジェームズ,J.デューイ。彼らの理論は,明治の頃日本に紹介されたが,特に第2次世界大戦後デューイの教育理論は,教育思想に大きな影響を与えた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
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「石橋湛山は、日蓮宗の僧侶杉田日布(当時は湛誓。のち身延山久遠寺第81世法主)を父、きんを母として、1884年9月25日、東京市麻布区(現在の港区)に生まれました。故あって母の姓石橋を継ぐ。 1903年に早稲田大学高等予科に入学。のちに1904年大学部文学科(部)哲学科に入学します。ここで哲学を学び、湛山にとって哲学思想の恩師、田中王堂と出会います。1907年哲学科の首席、同時に英文科を含む文学科の首席として卒業しました。

大学卒業後、特待研究生として1年間宗教研究科で勉強した湛山は、1908年(24歳の時)に島村抱月の紹介で毎日新聞社(現在の毎日新聞社とは異なる)に記者として入社しましたが、1年足らずで退社。1909年12月からは1年間志願兵として東京麻布歩兵第3連隊に入隊し、営内生活では社会主義者と間違えられたこともありました」。(http://www.ishibashi-mf.org/profile/)
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