政党は自己が滅び、また国を滅ぼさん

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 「日本は、どうして、あの無謀な太平洋戦争を起し、亡国の一歩手前まで転落するにいたったか。その主たる責任が、昭和六、七年以来、しだいに増長した軍部の専横にあったことは、いうまでもない。

 だが、しからば軍部は、どうして、さような専横を働くにいたったか、それには私は大いに日本の政党に責任があると思う。

 …明治四十年代から大正にかけて、日本にも民主主義思想が大いに勢力を張り、政治においても、ほとんど政党内閣制が確立しかけたのである。しかるに、それが完全な発育をせず、ついに五・一五事件で、大勢は逆転してしまった。

 この原因はかならずしも単純ではない。第一次世界大戦後の、ある時期からの世界が、全体として民主主義の発達に幸いする情勢になかったことも、否認しがたき事実である。

 しかし日本の政党政治が無残な終末を示したのは、まさに政党政治家の責任であった。彼らは、明治以来、いわゆる藩閥官僚が専権をふるった時代には、たしかに民主主義のコースに従い、藩閥打倒の勇敢なる戦闘をした。しかるに一たび、政党内閣制が確立しかけるや、彼らは政党間の政権争奪戦に没頭した。しかも、それがためには手段を選ばず、かつて、その排撃した軍閥官僚の力を利用するにいたった。政党間の苛烈なる試合は、政党に対する国民の信用を失墜し、ここに、また政党に替って、軍部が国政の指導力を獲得する間隙を与えた。政党を滅ぼしたのは政党で、そして政党は自己が滅びる共に、また国を滅ぼさんとしたのである。」(『湛山回想』)

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 『回想』はどこまでも過ぎ去った歴史の情景を浮かべながら、問題の有無や事象の是非を論じる体のものですが、湛山の場合は、過去を語るという以上に、未来についての導きの糸を紡いでいると、ぼくには読めてきます。過去を知ることは未来を語る条件であり、過去に責任を持つのは、未来の可能性を信じるための根拠となるのです。歴史を学ぶというのは「過去との対話」であり。「未来への期待」に外なりません。湛山氏は一貫して言論自由人として「東洋経済新報」誌上にて健筆をふるい、時に権力の横暴に鉄槌を下すが如く、また時には筆を屈せざる得ないような窮地に陥ることしばしばでした。彼の一筆は、社運をもかけての闘いの武器でもありました。そのような湛山の後半生は、国を誤った政治の道を回復する仕事に専念する思いが強かっただろうと想像はできますが、歴史の皮肉なのかどうか、病魔に倒れ、あらぬ方向に政治の道は折れ曲がっていったのであります。

 石橋短命内閣の後継は「日米安保体制」内閣とその後裔たちに委ねられてしまったと言えます。ぼくは、この岸内閣への政権禅譲は、湛山畢生の、あるいは痛恨の過誤であったと今でははっきりと言えます。禍根を残さない生き方に徹したとみられる湛山にしてこの過ちを防げ得なかった。現状の政治状況はどうか。軍部は前面には出ていないが、それと容易につながりうる少数官僚が、政党もふくめて政治情勢を作り出し、政治を壟断し、まがいもの政治家を翻弄しているとも見えます。あろうことか、政権の死命さえ制しているのです。右顧左眄は官僚のお家芸だといわれてきましたが、いまでは政党政治家の十八番(おはこ)になったのです。

 この島にはいくつもの政党はありますが、いわば共産党とそれ以外の、たった二つの勢力しかありません。与党と野党と識別されますが、共産党以外は全部与党だとぼくはみなしています。隙あらば、政権党に寝返りたい、また、別口はいつだって与党に足を突っ込んでいるのです。野党から与党への転石、あるいは所属替えがときに起こりますが、それは分家から本家帰りをしただけの戯(偽)鳴動です。表向きは喧嘩腰、裏ではハグしているんだ。与と野は「融通無碍」「交通自由」と言っても誤りではないでしょう。危機が胚胎するのは奇怪な野合(付和雷同)政治が行われるときです。

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 このように言って、現下の状況は昭和初年から「戦前」に酷似していると言いたいのではありません。歴史はくりかえさない。いつでも、どんな場合でも「新しい状況」において何事かは起こるのですから。「民主主義」という「革袋」にはつねに「ファシズム」という腐敗菌がこびりついており、それが時宜にかなって大繁殖し(湛山から岸へ「政権」が渡ったように、一瞬の隙があった)、ついには猖獗を極めるという歴史の暮れ方と行末に、ぼくは胸を痛めながら、心ひそかに、弱法師(俊徳丸)並みの「覚悟」を決めようとしているのです。高安通俊は、どこにいるのだろうか。

 今からは想像もつきませんが、上京してから(二十歳頃)ぼくは「能」「狂言」にイカレてしまい、暇を見つけてあちこちの能楽堂に通ったりしました。今はその痕跡さえも消滅したようですが、何かの折に、突然能舞台が浮かぶことがあります。「熊野(ゆや)」「松風」「弱法師」「当麻」などなど、往時の能役者の舞姿が彷彿するのです。結婚後、かみさんの大学の同級生に桜間道雄さんのお嬢さんがいたと聞いて、驚いたことがあります。ぼくは桜間さんの大贔屓でしたから。能についても雑文を綴りたい気もしてます。

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*能の曲名。四番目物観世元雅(もとまさ)作。ただしクセは世阿弥作らしい。シテは俊徳丸。河内の高安に住む高安通俊(みちとし)(ワキ)は,人の告げ口でわが子の俊徳丸を追い出したが,それを後悔して,功徳のため天王寺で7日間の施しを行った。その施行(せぎよう)の場に,弱法師と呼ばれている盲目の少年(シテ)が来て施しを受ける。弱法師は乞食の身ながら,梅の匂いに気持ちを通わす清純な心の持主で,天王寺の縁起を説く曲舞(くせまい)を語って聞かせる(〈クセ〉)。(世界大百科事典 第2版の解説)

*櫻間道雄=1897-1983 大正-昭和時代の能楽師シテ方。明治30年9月14日生まれ。金春(こんぱる)。伯父桜間伴馬(ばんま)らにまなぶ。昭和30年三島由紀夫作・武智鉄二演出の「」に主演。45年老女物秘曲檜垣(ひがき)」を上演。同年人間国宝。昭和58年5月27日死去。85歳。熊本県出身。著作に「能―捨心の芸術」。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)(2020/10/28)

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