愁ひつつ岡にのぼれば花いばら

 西芳寺とは 京都市西部に位置する臨済宗単立寺院で、山号を洪隠山と称します。/ 境内を120余種の苔が覆っていることから、「苔寺」とも呼ばれています。
 西芳寺の歴史 遡ること1,300年前の奈良時代、聖武天皇の詔により、行基菩薩が畿内四十九院の法相宗の寺として開山しました。開山前の飛鳥時代、西芳寺があった土地には聖徳太子の別荘があったといわれております。/ 平安時代初期には弘法大師が一時住し、鎌倉時代初期には法然上人が浄土宗に改宗。兵乱による荒廃の後、松尾大社の宮司藤原親秀の招請で、暦応2年(1339年)に当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓國師が禅寺として再興しました。(http://saihoji-kokedera.com/about.html

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 高校卒業と同時に、ぼくは京都を離れました。なにか大志があったわけではなく、いかにも狭い京都(地理も人間関係も)が性に合わないという気になっただけでした。どこに行くあてがあったのでもありません。東へ東へと乗った急行電車の終着駅が東京だっただけ。以来、半世紀を超えてしまいましたが、ほとんど京都に戻らなかった。だから、ぼくの京都は高校時代までのごく一時期、街中に土地勘はなく、もっぱら今でいうところの右京区、嵯峨野周辺が居場所になっていました。よく歩いた。盆地でしたから、すこしばかり丘に登れば市内は一望できました。ひたすら歩いたという感触が今でも残っています。そのついでに手当たり次第にお寺や神社を徘徊しました。その習性は今も変わらず、ぼくは徘徊人です。

 小学校時代に岐阜からだったと思いますが、転校してきた子と友人になった。彼とはよく行き来した。O君は天龍寺の塔頭の一つのお坊さんの息子で、よく夏休みなどには天龍寺内のあちこちに、今からでは想像もできませんが、入り込んでは本を読んだり話したりしていました。天井の竜(龍)に驚嘆したのを覚えています。入館料徴収などというケチな料簡はお寺にはなかった。どこでもそうだった。桂離宮も。当時からぼくは西芳寺(苔寺)にはよく行きました。その隣には鈴虫寺として有名だった華厳寺にも散歩がてらに行きました。と、こう書いているとつまらない思い出話に終始してしまいそうなので止しにします。

 西芳寺は早朝がいいですね。親父や兄貴は画板や写真機を持って出かけていました。今でも探せば、当時の作品があるはずです。兄貴はカメラもよくして、さかんに売り込んでいました。朝日が差し込む苔の輝きを切り取った作品はよく記憶しています。都落ちしてこそ、京都のいい面も悪い面もよく見えてきました。志ん生が得意にしていた「祇園祭」に、ぼくの思いがよく出ているように思いました。抹香臭い京都、でもがめつい都、と。

 この地もまた「兵どもの夢の跡」だというほかありません。「「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」というのは芭蕉翁です。

 ぼくは蕪村も好きです。彼の母の生誕地は与謝郡加悦とされます。その蕪村から。

 愁ひつつ岡にのぼれば花いばら(20/07/09)

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