

世はさまざまな新聞・旧聞を抱えて上を下への大騒動です。七つの海も大波小波で人心を洗うが如くに波立ち泡立っています。ふと陋屋の周囲を見渡せば、竹葉も色づき、見事などとは言えないながらの紅葉の時節到来です。昨秋は三週続きので自然の猛威に翻弄され、いまだにその傷跡が癒えていませんが、ともかく「紅葉(かえで)」「黄葉「いちょう)」が一段と色を濃くしてきました。上の写真はかつての「遊び場」だった京都嵯峨の二尊院。京都の記憶にはいいものがあまりないのですが、狭く盆地で囲われた山々の自然だけは、ぼくの懐かしさを刺激してくれるのです。故郷というつもりはありませんが、離れて気づくこともあるというばかり。
ほっとするのも、しかし、ほんの一瞬です。山中に暦日なしと、隣国古代の名僧は言いましたが、それは古代中華奥深い山陰の話で、狭い島では山中であろうが山奥であろうが、海中であろうが海底であろうが、どこまでも「暦」も「金」もついて回ります。「地獄の沙汰も金次第」という境地は未経験ですが、「地獄並みの世界(今生)」もまた「金塗(まみ)れ」「金亡者塗れ」です。山中もまた、立派な社会であり世間であるのです。タヌキは車に轢かれ、蛇も踏み殺されている、スズメバチは乱獲にいそしみ、カラスは人界を攻撃します。その他、キョン(小泉さんじゃない)もハクビシン(ハクビジンじゃない)も虎視眈々と獲物を狙っています。森羅万象、生きとし生けるものは、すべからく競争、それも生存競争という「食うか食われるか」の闘争に明け暮れる。恐ろしいような修羅の弱肉強食の巷でもあり、それゆえに、山中ではすべてが刺々(とげとげ)しくも見える「虎視」になるんですね。

車社会はまた、粗大ごみ捨て放題の社会でもあります。無料廃棄物放置場に変貌します。マットレス、椅子、ソファ、冷蔵庫に洗濯機と、拾い集めれば、大した文化生活ができるほど。過日は、すこし離れた町の傍の田んぼの中に「死体」までが遺棄されていました。死体が遺体になるには「手厚い手当」が必要です。近年はまるで「塵「ごみ」」「遺物」並みの扱われようです。でもこれは近年にかぎらないですね、信長の比叡山焼きなどは、まさに「死体の山焼き」だった。
ぼくは、健気にも、いや当たり前のように道路掃除(除草を含めて)をすることもありますが、その傍から、待ってましたとばかりに生活ごみを投げ捨てる、不埒な都会ナンバーや地元ナンバーも。不法投棄という以上に無法投棄状態です。産廃銀座というのかどうか、ゴミも動物(生き物)も捨て放題、轢死した「動物」の後かたずけ(始末)をするのを見たことがありません。時には近場の土に埋めることがあります。
「今だけ、我だけ、我が家だけ」という空恐ろしい得手勝手な光景もまた、我が住処のある山中の隠せない実態です。もちろん、都会はすでに先行して、あさましい景色が広がっているのかもしれない。政治の「醜悪さ」は勝手放題を旨とする個々人の単なる合算体(信号待ちしている人だかりのよう)である「社会人」の「社会性」退廃・頽落に見合っています。ぼくにとって、山道の散歩は道路清掃作業でもあります。寄って嵩って、地球を汚濁塗れにするのに「政治経済」は躍起になって来たし、この先も、さらに悪路を邁進するのでしょう。それを「先進国」というのらしい。この島の政治経済は、「やがては産廃」を輸出するのに狂奔しています。そういう自分も、なりたくないといっても、それに乗りかかって生きてきた身です。自分を含めて「定見のなさ」をいまさらのように深く悔いるという始末です。今日もまた、掃除を兼ねての散歩に出かけます。

###########################

前総理は「食言と食い逃げ」した罪の意識で敵前逃亡(手下は裁判にかけられています)、新総理はまだ「官房長官」のつもりか、原稿を読みながらも、わけのわからない「寝言」「戯言」をほざいています。やがて彼も「敵前逃亡」する予定です。彼らには「人民」はすべて敵なんです。「いずれ野におけ蓮華草」じゃなく、「いずれ消え去り闇の夜」となりそうです。そんな腐敗・堕落の権力にも取り憑かれたい人がいるものです。いかにも不細工なな趣味人は、もちろんいつでもどこにもいる。びっくりするほどたくさんいるのが世間です。「今に見ていろ、俺だって(女性もいるはずなんだが)」という御仁に不足はないが、逸材は払底しているのが悲しいところです。御年七十九歳の「元官僚」は現在も現役で、猛烈な仕掛けを繰り出しています。「昔取った杵柄」なんです。これこそ、「現在カンリョウ」というのかしら。「スギタ」というが、実際は「スギテナイ」というわけ。

さて、湛山さん。敗戦直後に、昭和初期の激動期を回想しています。回想時の十数年前の出来事でした。時は浜口雄幸内閣、金解禁と金解禁の禁止という定めない金融政策。加えて「満州事変」「五・一五事件」「二・二六事件」と、不穏な事変や事件の連続した時期、政治は翻弄されていました。
「ところで、金解禁の結果は、残念ながら、私の想像どおり、四年以来の緊縮財政による不景気を、いよいよ、はなはだしくし、六年九月英国が金本位を停止するにいたって、事態は、さらに深刻を加えた。しかも、その同じ月に満州事変が起った。浜口首相(左下写真)が凶弾に倒れて替った若槻内閣は、ついにこの事態にささえきれず、昭和六年十二月辞職し、政友会の犬養内閣が登場した。そし高槻是清蔵相のもとに、直ちに金の輸出再禁止を行った。(『湛山回想』)

時すでに遅し、だった。昭和四年以来の不景気が事態を一層深刻にしたのです。ドイツでも同じような不景気が「ヒットラー」の登場と即座の政権奪取を許した(昭和八年)この時期も、もちろん湛山記者は「小日本主義」を標榜しつつ、渾身の「愛国」記事を書いていたのです。いずれ触れることになりますが、記事の差し止め、発禁処分も数知れずという果断さであった。プラグマティズムの本領をいかんなく発揮していた時代でありました。「国粋」や「翼賛」という「流行り病」はコロナ禍の比ではないという猖獗を極める脅威であり、そこから解放さるることは至難の難行だったという、一つの証明が湛山氏でした。

「ドイツは、そのヒットラーに滅ぼされたが、日本も、また、軍部に亡国の一歩手前まで追いやられた。かように考えると、日本を今日の悲境に立たしめたのは、じつに昭和五年の金解禁だったともいえるのである。/ 『東洋経済新報』は、このことを、大正十三年から予言し、警告したのである。にもかかわらず、世人は少しも、これに耳を傾けなかった。これに多くの人が耳を傾け出したのは、すでに不景気が深刻化した昭和五年ごろからであった。その間、六年の歳月が流れた。そして前記のごとき事態に立ちいたった。/ 私は、この経験をもつのである。戦後の日本も、また同様の誤りを繰り返しはしないかと恐れたわけである。」(同上)

湛山氏がこれを記したのは、昭和二十四年頃です。敗戦後ほどない時期、この島社会が「同様の過ち」をくりかえすことを恐れていたのです。(ここでも面倒なことは省きます)「歴史はくりかえさない」とぼくは言いました。くりかえしたいと願う人はいます。「栄光の時代」「世界に冠たる本邦」がこの島にあったのかどうか、ぼくには分かりませんけれども、これもまたいつのことだか知らないが、かつて「美しい国」があって、それを取り戻すために「戦後総決算」「戦後政治の一掃」を吠えたり叫んだり煽ったり、こんな政治の不毛の時代が続いてきた結果、ぼくたちがほとほと呆れもし、歎きもするような腐敗と堕落、軽薄と侮蔑に彩られた「政治家の時代」「架空の鬼退治政治」は続いているのです。仮想敵国を勝手に作り出し、ヤバくなれば、敵前逃亡を恥としないお多福。聞くところによると五輪組織委員会の「最高名誉顧問」に祭り上げられたそうだ。どの面下げて受け入れたか、いや自ら名乗り出たに違いない。

「普通に戦争できる国」を目指して嘘八百を垂れ流し、それを多くの人民が歓呼して、あるいは黙して受け入れてきたのは事実でした。(我関せずと無関心であった、ぼくもその一人だ)この先もまた、嘘と方便に塗れた政治や政治家とともに、ぼくたちは進むのでしょうか。New PMは「国民のために働く内閣」といった。えっ、と腰が砕けました。「国民のため」を騙らない政治とは、いったい何なのだ、これを政治信条第一番として掲げるという無知蒙昧、背筋が寒くなります。いったい、なんじゃこれ?というほかありません。「石が浮かんで木の葉が沈む」、こんなバカげた政治は一刻も早く絶滅させたいが、それはまず不可能であることも、太陽は西から出ないのを知っているように、ぼくは知悉しているつもりです。

秋冷のまなじりにあるみだれ髪 (蛇笏) (2020/10/16)
________________________________________