塊としての国民から個人の独立…

 何をしなくても、まもなくも五月(皐月)になります。今月末から五月初めにかけて「休日」が続くので、どうしてそういわれるのかぼくにはわかりませんが、なんとそれは、「ゴールデンウイーク(黄金週間・オーゴンシューカン)」と唱えられてきました。誰が言い出したことか、そんなことは忘れて(無関心で)、猫も杓子も「黄金週間」で浮足立つという、軽躁かつ軽薄なといいたい日時が連続します。何連休だとか、ね。それはぼくには関係のないことですから、どうでもいいのです。まだ勤め人のころ、新学期が始まったとたんに「連休続き」で、授業が途切れることおびただしい、その時、ぼくは当局に「四月から、世間の暦とは無関係に、毎週授業をしたらどうか」、そして三十週を確保した段階で、休暇にする、そんな提案をしたことがありました。歯牙にもかけられませんでした。当時、この学校は授業期間より休業期間のほうがはるかに長かった時代です。いまは、監督官庁も「形式尊重」で、年間三十週の授業回数を義務づけている。今では「週休三日」どころか、「四日休み」という企業さえ出てきました。いったい、何が変わったから、仕事も生活もこうなったのでしょうか。さらには、「在宅勤務」だという。変われば変わる、世の習いというところですかね。「働き方改革」どころか、「生き方改革」を強いるような趨勢ではあります。(アイキャッチ画像:https://www.jalan.net/news/article/234656/)

 この「黄金週間」には「天皇誕生日」と「憲法記念日」が含まれています。今は名称や連休の位置づけも変わったようです。しかし「憲法記念日」は今もなお、五月三日と「指定席」になっています。この憲法制定問題に関しても、いまだからこそ、少し丁寧に成立過程の軌跡をたどっておく必要性を痛感しています。機会を改めて「日本国憲法」問題を駄弁りたい。現行憲法が「骨抜き」「形骸化」といっていい事態にあるにもかかわらず、それに対する、多くの人々の反応はきわめて穏やかであり、いやいっそ、国民は無関心であるといった方がすっきりするくらいのものです。だからこそ、基本に立ち返って、憲法に向き合う我々の姿勢を考えておきたいのです。憲法は、日本という町内会が他の町内会(他国)と付き合う際の「名刺」のようなものです。「私はこんなものです、よろしくお見知りおきください」と、相手に自分を紹介するときの「いで立ち」であるといってもいいでしょう。脇差もなければ、飛び道具も持っていませんよ、と友好親善を旨としての付き合いに足場(起点・基点)を置いているという宣言でもあるのです。それはまた、「くにのかたち」を絵ではなく、文章にしたものです。以下、ぼくの敬愛しているお二人(故人)の「市民」の対談から、いくつかの文章を引用しておきます。(右上は、朝日新聞・1947年5月4日朝刊・東京本社版)

 町内会という仕組みは、一面では、今日でも行政組織の末端に置かれています。しかし、それはさておくとして、その地域内に居住している住民がより合って生活するうえで、危険、あるいは不便や不公平がないように、少しずつの労力と会費(参加料)を受け持って、「自治」を実践していく建前でした。今ではそのありようもかなり変容してしまいましたし、加入する人も減少してきていますから、なかなか狙い通りの成果は上がっていないのかもしれません。ぼくは、この町内会(という組織)を「政府」の一変形と見たいのです。そこには何ら強制力はないし、義務もない。しかし町内に住んでいる人々の「ボランタリー」の姿勢によって成り立つもので、まずは、個々人の「私的領域」に侵入してこないし、住民の中から選ばれた「世話係・役員」によって、それも輪番制によって、生活環境の良化に努めるというものです。まずは「自発性」「自主性」が求められるもので、それこそが、デモクラシーの大事な要素ではないでしょうか。他町内とも、何かしらの交流はありますが、「防衛力」は、もちろん無用。「世界は町内会で成り立っている」、そんな「非政治的政治組織」を「国家」に重ねて考えてきたものでした。

 「憲法と市民的自由」《 憲法停止によってみずから敗北を招いた太平洋戦争が終わった時、ぼくは新憲法について、国民主権と天皇制の問題もさることながら、日本人の人権章典がどこまではっきりとシステムとして確立し、表現されているかに大きな関心を寄せていました。ところが、出来上がったのは相も変わらず第一章に天皇条項があり、人権章典にあたる内容は第三章以下になっていたので、はなはだ不満でした。

 GHQ側でいえば、天皇を保存しておいて日本の降伏と再建に役立てるという狙いだった。その意味でいうと、現行憲法も明治憲法と同様、「対他的構造」と「対自的構造」の二つの側面から見なければならない。だから、天皇制というのは、一方では支配の構造であると同時に、他方では外側に対する団結の心棒でもあるわけです。ここを左翼の史家はほとんど軽視してきた。

 だから、現行憲法の場合も、外側に向かっての団結のシンボルとして象徴天皇をいただいていてもいいだろうと、津々浦々までの日本人が信じこんだのだと思うんです。その背後には、ぼくに言わせれば、「日本共同体、一民族、一国家、一指導者」という、いつでも排他的日本型ファシズムになる一歩手前の信仰がひそんでいると思う。戦争に負けても、その根本は温存というとおかしいけれど、ちゃんと残り、今に続いている。それが日本の経済成長の原動力になっているし、また、ぼくは戦後生まれは日の丸を背後にかかげないとおもっていたけれど、…そうではなかった。後ろに日の丸や軍艦こそないにしても、やはり日本国という大国を背にして企業も個人も海外に経済上、政治上、進出している。これは、かなり激しいナショナリズムですね。/ これをどうしていくか。外側に向かって、新しい国民の団結を持ちつづけながら、世界に向かってどう開くかがこれからの課題になるでしょう。それには塊(かたまり)としての国民からの個人、個人の独立による新しい国民の形成がぜひとも必要でしょう 》(久野・鶴見著『思想の折り返し点で』朝日新聞社刊、98年)

 この発言は鶴見俊輔さん(一九二二~二〇一五)との対談で述べられた、久野収さん(一九一〇~九九)のものです。お二人の対談は「明治憲法」制定後百年目の九八年になされています。時代は変わったか。変わらないままだったか。それは今も続いているか、実のところ、「対他的構造」も「対自的構造も」、相当にその様相を変えてきたような印象が持たれています。憲法そのものは一字一句も変わらないのに、その憲法自体がなんとも軽々しく、まるで浮草のような扱いを、しかも、そしれが国会において受けているのですから、まことにどうしようもない事態だといいたくなります。憲法の形骸化、あるいは憲法を「換骨奪胎」してしまう政治の勢いです。まさに、こんな問題がぼくの前に横たわっています。

 「久野さんがずっと主張し行動してこられた、戦後日本の運動としての、市民としての不服従というものですね。その組織というか毛細細胞をどう作っていくかの問題ですね」という鶴見さんの発言を受けて、久野さんは続けます。まず、国民である前に個人であるという存在の仕方、加えて、個人と個人が作り出すのが「市民社会」ですから、国民とか国家とは、範疇が違うのだという自己意識がさらに求められるのです。国家権力の暴力や横暴を阻止(チェック)するのが「市民」の役割であり、その根拠をなすのが憲法だというのでしょう。市民と国民は重ならないものであって、もし国民の陰に市民が入ってしまえば、権力の暴走をどのようにして、誰が阻止できるのでしょうか。ロシアを見るといい。あるいは、この百年ほどの、特に明治後半から大正・昭和前期までを。当時の島社会の姿を、ていねいに検証してみるといいでしょう。

 「憲法でいえば、ぼくは専門の憲法学者ではないが、憲法なるものはそれを解釈する専門家が別にいるのではなく、個々の市民の解釈の複合として憲法がなりたっていると思う。憲法は法文に対する解釈なり、意味なりの体系なのであって、意味は、鶴見さんが戦争直後からずっと明らかにしてきたように、向こう側にあるのではなく、われわれの実践的態度によってきまってくるものであり、またわれわれの態度を要求するものでもある。…/ だからわれわれがどういう態度をとるかによって、憲法の意味も変わってくるでしょう。そうした憲法の意味の市民的読み方、考え方、生き方を戦後いろいろ鶴見さんたちがやってきましたが、今後ますますそれは大切になってくると思う。憲法の意味を読むことが要求する実践的態度を、市民が譲らずに一つ一つ市民的自由として実現し、身のまわりから市民的権利として拡充していく必要がありますね」(同書)

 憲法は、それをいかに読み解くか・読み解かれるかの試金石であり(最高裁の重要な役割にもなっている)、それは「お上」に任せていいものではないのです。「憲法改正」(というより、現行憲法の骨格を無視したもの)がある時期から著しく騒々しいほどに、悪者扱いの対象にされ、実質的には何一つ「改正」されないままで、「改悪」されてきています。その上に、「戦争ができる国」になるために新たな、武装条項(防衛だけではなく、攻撃も不可欠という)まで加えようとしているのです。今では、核を持とうではないかというところまで、赤信号なしで突進しているような事態にあります。「憲法の意味の市民的読み方、考え方、生き方」をぼくたちは、どのようにして実践していくか、これは今もなお問われている問題であり、それは一人一人の責務でさえあるといいたくなります。「戦争反対」「人権蹂躙、断固阻止」ということが、個々の「いのち」に代えても言い出せないような状況が現実に生じているのです。この島には「平和憲法」が健在だから、あんな野蛮な露国とはわけが違うと考えている人がいるでしょうか。憲法があっても、それに指一本触れないままで、どんなことでも可能だという「国権の最高機関」のと無力と行政権力の横暴をぼくたちは、この十年ほどの間に、いやになるほど見せつけられてきました。そして、その醜悪な状況・状勢は変わらないままで続いているのです。

 「何が人権問題か」ということに関して議論百出です。学校教育に限定しても「人権侵害」や「人権蹂躙」といった事態(体罰やいじめはいうまでもなく、セクハラやパワハラは日常化しています)がいたるところで見られます。また、幼児・児童。老人虐待も頻々と発生しています。このテーマを深く追求していけば、教育や学校の現状、あるいは在り方、さらには国家(集団)と国民(個人)の関係を問いなおすことになるはずです。「教育とはなにか」と問われて、人はだれでも「学校教育」は経験済みだし、だから明確に「それは○○である」といってみたくなりますが、それで十分かどうか。分かっているようで、はっきりと理解や納得をしていないことはじつにたくさんあります。その際に大切なのは、分かったつもりにならないことです。あくまでも、ある事柄について疑問をふくらませ(育て)、そこからいつでも離れない姿勢です。根っこを掘り起こしていく姿勢、それが最も大事なことではないでしょうか。

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね」(鶴見俊輔)

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◎久野収(くのおさむ)(1910―1999)=思想家、評論家。大阪府生まれ。1934年(昭和9)京都帝国大学文学部卒業。在学中、滝川事件を体験、学生を組織して滝川幸辰(たきかわゆきとき)教授の休職に対する反対運動を起こしたが、弾圧された。1935年『世界文化』誌、翌1936年『土曜日』紙の創刊に参加。京都を中心に反ファッショの文化運動を進めたが、1937年治安維持法違反で検挙、2年間投獄される。第二次世界大戦後の1949年(昭和24)学習院大学講師となり、哲学を講ずる。「平和問題談話会」(1949年結成)のメンバーとして日本国憲法の原理にたった全面講和や非武装中立の実を目ざして活動。以後、「憲法問題研究会」、安保闘争ベ平連運動と不断の実践活動を続けるなかで、リベラリズム、市民主義の立場にたった数々の優れた平和論を発表した。対談の名人としても知られ、多くの対談集を残している。おもな著書に『現代日本の思想』(共著・1956)、『憲法の論理』(1969)、『平和の論理と戦争の論理』(1972)、『歴史的理性批判序説』(1977)、『日本遠近――ふだん着のパリ遊記』(1983)などがある。(ニッポニカ)

◎鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)(1922-2015)=昭和後期-平成時代の哲学者,評論家。大正11年6月25日生まれ。政治家・鶴見祐輔の長男,社会学者・鶴見和子の弟。ハーバード大で哲学をまなび,昭和17年帰国。21年丸山真男,武田清子らと「思想の科学」を創刊。思想の科学研究会で「共同研究・転向」などをまとめる。京大助教授,東京工業大助教授,同志社大教授を歴任。プラグマティズムの紹介や大衆文化論,日常性に立脚した哲学を展開。40年小田実(まこと)らとベ平連を結成し,ベトナム反戦運動を組織。57年「戦時期日本の精神史」で大仏次郎賞。平成6年朝日賞。16年梅原猛,大江健三郎らとともに「九条の会」設立呼びかけ人となる。平成20年「鶴見俊輔書評集成」全3巻で毎日書評賞。平成27年7月20日死去。93歳。東京出身。著作はほかに「日常的思想の可能性」「限界芸術論」「柳宗悦」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 「疑う」という行為も、ひとつの権利、立派な権利です。つまりは人権なんです。疑う権利を行使する、そうして初めて、問題のありかや内容が判然としてくる。疑わなければ、あらゆる問題は、ぼくたちを素通りしてしまうでしょう。「ウクライナの戦争」って、ぼく(わたし)に関係ないでしょ、と言って済むなら、問題は起こりようがない。遠く離れた地域で「殲滅作戦」「殺戮戦争」が展開されており、その際に使用されている「武器」「装備」にはこの島の企業が作った部品や製品が使われている、これは、ほんの一例です、どこで戦争が起ころうと、もはや、あらゆる意味で、自分たちとは無関係とはいえない時代に生きていることの証明です。「運命共同体」とか「宇宙船地球号」などという言葉や名称は好みませんが、じつはそのような「交わり」「交際」の中でこの世界は動いているのです。だとするなら、自分の立場から離れないで、考えられるところを掘り下げてみるべきではないでしょうか。自分には無関係、と言っているけれども、やたらに最近、「モノの値段が上がる」のはなぜなのでしょうか。

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 アメリカの開拓時代に生きたひとりの「賢人」が次のよういっています。(この部分も、すでにあちこちで触れていることです。にもかかわらず、何度でも紹介しておきたいのです)

 《 お金が手に入る道は、人を堕落させます。例外はないと言ってよいでしょう。みなさんがお金を稼ぐためだけに何かをしたというのであれば、それはむなしいことです。いや、もっと悪いでしょう。もし、働く者が雇い主の払う日当の他に何も手にするものがないとしたら、彼はだまされているのです。そして自分で自分をだましているのです。作家か講演者としてお金を得ようと思ったら、人気者にならねばなりません。それはもうただ堕ちていくことです 》

 このような仕事観(人生観)を述べているのはソローというひとです。

 《 何のために働くのですか。生計を立てるためですか。「よい仕事」を見つけるためですか。ちがいます。ある仕事を心から満足のいく形で仕上げるためです。働く人に十分な支払いをするとしても、単に生活のためというような、低い目的のためではなく、働く者が知識にふれ合う、あるいは道徳的な目的のために働いていると感じられるとしたら、そのほうがお金を支払う町にとっても結局は有益でしょう。町の皆さんは、仕事をお金のためにする人間でなく、その仕事を愛している人を雇うべきです。/ 自分の気に入った仕事に心ゆくまで専念している人が非常に少ないのに、ほんの少しのお金や名声に目がくらんで今している仕事を捨ててしまう人が多いのには、驚きます 》

 《 人々が人生に求めるものは何ですか。ふたりの人がいるように思います。一人はあたりはずれのない成功に満足します。つまり銃を水平に構えて標的を狙うので、みな命中します。もう一人のほうは、生活は貧しく、出世街道から離れていますが、地平線よりわずかでも高いところに、絶えず自分の目標を上げていきます。私は後者のようになりたいのです。東洋人がいうように「いつも下ばかり見ている人は、すぐれたものに出会うことはなく、上ばかり見ている人はみな貧乏になっていく」ことは確かでしょうが 》

 《『賢い』という言葉はかなりの場合、誤って用いられています。他の人々より生き方に深く通じているわけでないのなら、つまり、他の人より狡猾で頭が切れるというだけなら、どうしてその人が賢い人といえるでしょうか。知恵の女神は囚人に踏み車を踏むような単調な仕事をするでしょうか。あるいは彼女をまねすることで成功の秘訣を教えてくれるでしょうか。そもそも人生に適用されない知恵というようなものがあるのでしょうか。知恵の女神は、論理を石臼で碾(ひ)いて精緻なものにする粉屋にすぎないのでしょうか。(中略)生計を立てる、つまり生きるというとても大切なことが、ほとんどの人にとって、当座しのぎ、人生の真の務めからの逃避となってしまっています。その理由は、主として彼らがそれ以上のことを知らないからなのですが、それ以上のことを知ろうとする気がないからでもあります》(ソロー『生き方の原則』山口晃訳。交遊社刊、2007年)

 ソロー。彼は終生、自分の足で歩き通した人でした。世において詩人、作家、思想家、ナチュラリストなどと称されますが、どんな肩書きにもおさまらない存在だった。没年は「文久二年」です。左上のイラストに、彼の残した一文が記されています。きっとソローのライトモチーフとなっていたのでしょう。<I have never found a companion that was so companionable as solitude.>

 《なぜわれわれは、こうもむきになって成功をいそぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか?ある男の歩調が仲間たちの歩調とあわないとすれば、それは彼がほかの鼓手のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽にあわせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。リンゴやオークの木のように早く成熟することなど、人間にとっては重要ではない。われらが春を夏に変えろとでもいうのだろうか?自己本来の目標を達成できる条件もととのわないうちに、現実をとりかえてみたところでなにになろう?われわれは空虚な現実に乗りあげて難破するのはごめんである。それとも、労苦をいとわずに、頭上高くそびえる青ガラスの天井を建設すべきだろうか? たとえそれが完成したところで、われわれはそんなものを無視して、やはり、はるかかなたの霊気に満てるまことの天を仰ぎ見るものときまっているのに?(ソロー『森の生活』岩波文庫)

 ◎ソロー(Thoreau, Henry David)[生]1817.7.12. マサチューセッツコンコード []1862.5.6. マサチューセッツ,コンコード=アメリカの随筆家詩人ハーバード大学卒業後,エマソンを中心とする「超絶クラブ」の一員となり,機関誌『ダイアル』に寄稿する一方,1845~47年ウォールデン湖畔に小屋を建て,ほとんど自給自足の生活をした。この実験的生活の記録が『ウォールデン──森の生活』 Walden,or Life in the Woods (1854) で,超絶主義の主張の実践として,またエコロジー思想の先駆として後世に大きな影響を及ぼした。生前に出版した書はこのほか『コンコード川とメリマック川の一週間』A Week on the Concord and Merrimack Rivers (49) だけであったが,死後,1906年に刊行された全集は日記を中心に 20巻を数え,ほかに『全詩集』 Collected Poems of Henry Thoreau (1943) ,『書簡集』 The Correspondence of Henry David Thoreau (58) もある。(ブル谷化国際大百科事典)

 学校になじめばなじむほど、実生活(当たり前の明け暮れ)から離れてしまうのはどうしてでしょうか。「生きる力を育てる教育」などということがさかんにいわれましたが、そのこと自体が学校では生きる力が育た(て)ないことの証明になりませんか。ここにはっきりと学校教育の目的や意味があるように私は考えています。つまり、生きる力を個々のこどもが育てるようなプログラムは最初から学校には存在していないのだということです。では、いったいなんのための学校、なんのための教育なのか、このことはあらためて問われる必要がありますね。「他人に命令される」「他者に使われる」、そんな「人間」を作るのが学校の仕事なんでしょうか。自分がどのように生きるか、自分の足で歩くとはどんなことを言うのか、それを自ら日々の体験として身に育てる仕事を、学校は阻害しないこと、それが学校のできる最良の役割だと、ぼくは言いたいですね。

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 生きている時間が長くなれば、それだけ「生き方」に精通するということがあってもよさそうですが、ぼくに関しては、まずそれは起こりえませんでした。生きている限り、次々に難問は行く手を阻むというように生じてきました。まるで、それは「落石」のように、突如として道をふさぐ、そればかりか、まともに押しつぶされかかったこともしばしばでした。「一寸先は闇」とは、あるいは「平凡な人生そのもの」が孕(はら)んでいる謎を言い当てているのかもしれません。大小さまざまな「落石」をかいくぐって存在するのは、いわば「奇跡」でもあるのでしょう。それをもっと、ぼくたちは実感してもいいんじゃないでしょうか。何時でもそれを超える(問題を否定するのではなく、逃げるのではなく、差し当たって、その問題について「自分はこう考えておく」という仮の方途を見つける)のに四苦八苦しているのです。経験というものの、重みをいろいろな場面で痛感させられている。

 「自分は偏見によって生きる他なく、しかしどこまでもその偏見をうちくだく知識をさがし求めるという姿勢」、これを貫くことは至難の業ですが、それをしなければ、わたしたちの社会はいつまでたっても特権が幅をきかして、人権は危機の淵に置かれつづけるでしょう。教育のちからもまた、そこにあると思う。偏見を持たないことはすばらしいが、それは人間の分際では、まずありえない話です。「偏見とは縁が切れない」という自己意識を失わないで、ぼくは生きていこうとしてきました。だからこそ、年年歳歳、人生は、課題が深くなるという感覚が強くなってくるのでした。(2022/04/26)

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