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この三月で、房総半島中央部の僻陬地に越してから九年目に入ります。猪や狸たちが作る町内会の仲間入りをした気でいましたが、いつの間にか、猫に棲家を乗っ取られた格好です。いっそのこと、猫の仲間として(人間であることを忘れ・抛棄して)、時々は人間であったことを思い出しながら、何か急ぐ用事もない明け暮れですから、ヨボヨボと、ボチボチと老の坂を下っていくのでしょうね。また、この三月、春の彼岸が来ると、かみさんと同居・同棲して半世紀です。「偕老同穴」というのは趣味でも何でも無く、偕(とも)に老いるし、死すれば同穴(同じ墳墓に入る)ということですが、さてどうなりますか。ぼくは「偕老」は事実だから認めるけれど、「同穴」は趣味ではないとも言いたい気がします。第一、この狭い劣島に、「我も墓を」というつもりがないのです。いずれにしても、よくぞ「半世紀の興ざめ」と言われそうな「割れ鍋に綴じ蓋」だった、と実感が深い。「生まれ変わっても、もう一度」などということは現実にありえないし、生まれ変わりたくもないのです。彼女もそうでしょうね。ここでも、多分、殆どの場合には意見は割れるが、これ(同穴)だけはいっしょ、だとするなら、それはどういうことですか。

この駄文の書き殴りも四年目を迎えます。書き下ろしというのは有能な才筆家のなす仕事、ぼくのは書き捨て、ですね。まるで「旅の恥」という傍若無人の振る舞い、はた迷惑ぶりにそっくりです。人生もまた「荒野の旅人」ならばこそ、「恥も文も」書き捨てるのではなく、「ゴミは持ち帰りましょう」と言われますので、きっと「焚書」がふさわしい気もします。焚き火の焚付(たきつけ)。心を入れ替えて、ことごとく駄文、時々「雑文」を、それがこの春からの願いですか。いささか工夫が足りないのは能力の不足に並行してのこと、今更という気もしますが、すこしは、手応えのある(読み応えのある)雑文を心がけたいものです。加えて、コロナ禍を奇貨として、他者との邂逅を避けてきたし、避けられる理由にも恵まれていました。いつまでも不義理を恣(ほしいまま)にするのもどうかと思います。もちろん、紅灯の巷に赴くなどは金輪際ありませんので、足下、不便この上ない僻地に来られる方は、まず大歓迎したいというのも、春からの願い事の一つです。世間では「終活」などというチャライ言葉を使いますが、ぼくには「終活」も「就活」も「婚活」もありません。「あるがまま」、なにも取り繕うことはないのです。いうなれば、門前雀羅を張る杣小屋です、それをもいとわず、お出かけの向きは歓迎の上に歓迎しますね。

若い頃から、軽薄この上ない人間だという自覚が働いていました。だから軽薄ではなくなって、重厚になったというのではなく、しばしば、みずからの「軽薄」な言動に人知れず「赤面」し、「苦悶」していたのです。その軽挙を矯(た)める言葉として胸に刻んできたのが「人のふり見て我がふり直せ」でした。これを横着にも(出来もしないのに)、「人の不倫見て我が不倫直せ」と読み替えていた時期もありました。急いで言いますが、「不倫」はなかった。ぼくは面倒を厭う人間だったし、かみさんいわく「あんたには不倫はできない」と見限られていました。その心は「すぐ本気になる」ということだったろう。ぼくには、なおさらに高額費消の芸当はできなかったのです。つまりは「軽薄」そのものの言動を弄んでいた。だから、今更の感もあります。でも、「軽挙妄動」はまず生じないという、よく言う「注意深い」人間に、本年も精進しようという心積もりなんですね。

ぼくのモットー(習癖)のような心構え。まずは、今日一日を、です。そして今週をなんとか凌(しの)ごう、でした。長年の教師まがいの生活で染み付いた「悪習」かもしれない。ついで、まず今学期を無事に、そして、なんとか夏休みまでという具合に、気がつけば、この杜撰(ずさん)な態度(錯覚)で半世紀近くを過ごしてきた。これもまた、変更する必要もない「歩き方」だと、自分では思っているのです。それは牛歩か、蝸牛(かたつむり)の歩行のようでもあります。カメは鈍(のろ)いと言われるが、比較を絶して鈍いのは「蝸牛」じゃないでしょうか。ヨボヨボ、あるいはトボトボと、ぼくの歩く速さ(遅さ)は、この極低速度に限りますね。時に、駄文や雑文にお付き合い戴く、内外の方々に、穏やかな日常と、それを支えるためのご健勝が授かりますように、猫屋敷の住人は切願しています。(2023/01/01)
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勇気こそ地の塩なれや梅真白 (草田男)
作者(教師)の元にいた、三十名の学徒出征に当たって詠まれた「餞(はなむけ)の句」だという。「(昭和)十九年の春 ─ 十三歳と十四歳との頃から手がけた教え児たちが三十名『学徒』の名に呼ばれるまで育って、いよいよ時代の火のルツボのごときものの中に躍り出ていこうとする、『かどで』に際して無言裡に書き示したものである」(草田男「来し方行方」)成蹊学園教師時代のこと。「学徒」の運命はどうであったか。中村先生は、「地の塩たれ」と死地に赴く「学徒」に、他者からの教唆によってではなく、おのずから生まれるほかない「勇気」の尊厳を餞別とした。その場には、梅が真っ白の花をつけている。
若人の純真と勇気に、中村さんは何を託し、また念じたのでしょうか。「塩」はおのれ自身によってしか、その塩辛さ(塩味)を得られぬ、「諸君、おのれをおのれたらしめるのは、その勇気なのだ」「勇気を以って、地の塩たれ」と「教え児たち」の背中を押した。「無言裡」に暗示したのは、やがて戦禍に赴くであろう自身への「鼓舞」でもあったかもしれない。当時、草田男氏は四十歳だった。(いかなる理由があっても、国家の名における「人殺し」は認められぬ。戦争だけではない、「死刑」もだ)

● 中村草田男 (なかむら-くさたお)(1901-1983)= 昭和時代の俳人。明治34年7月24日清(しん)(中国)厦門(アモイ)生まれ。昭和9年高浜虚子の「ホトトギス」同人となり,21年「万緑」を創刊,主宰。人間探究派とよばれる。成蹊大教授,俳人協会初代会長をつとめる。58年芸術院賞。昭和58年8月5日死去。82歳。東京帝大卒。本名は清一郎。句集に「長子」「銀河依然」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)(2023/01/01)
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