一人一人が夢中でやり抜くうちに、勉強はね、できるできないの世界を越えるんじゃないか。できてもできなくても、そのことに関係ない、優劣のかなたの世界に子どもを持っていくだけのことをしなければ、本当に学んだ知恵、自分で自分を不幸せにしない知恵を持った人にすることはできないんじゃないかと。(大村はま:1906-2005)

私、子どもたちはね、かけがえのない位置が必要だと思うの、クラスにおいて。みんなが同じようなこと答えていくなら、別にだれさんがいなくても困んないと思うの。いなくても構わないってことがどんなに子どもにとって嫌なことか。(同上)
昔、もう少しまじめ人間であったころ、ぼくはいろいろな人の書いたものや話したものの中から気に入った文章や言葉を抜き書きして、それをお寺の門前の看板によくみられるような「今週のことば」としてみずからに紹介するという奇習をつづけていたことがありました。はたしてどんな効果があったのか、にわかには判然とはしませんでしたが、ぼく自身にはおおいに学ぶ機会になったと今でも考えています。

その旧習・奇習をここでもやってみたくなりました。ぼく個人の自主トレの格好の教材になるかもしれないと思うからです。いったい、今からなにをしようとするんだといぶかる気分がぼくの中にもありますが、なに、かまうものか思い立ったが吉日だよ、とそそのかす声もしきりにします。その誘惑に身をゆだねるようにして、まず第一弾(回)です。これはいわば、「口直し」または「目の保養」みたいなもので、普段の駄文・雑文の塵芥山からの下山(自己逃避)であり、一種の「精進潔斎」じみた呪(まじな)いでしょうか。理屈はぬきにして、一週の計は「日曜の朝」から、のつもりです。
下手な解説はしない。掲げられた文章を読み、また読み、また読むというだけでいいんじゃないですか。人物履歴も書かない。履歴の紹介は悪くすれば誤解を与える恐れもあります。ルール違反のそしりを受けそうですが、出典も示さないでおきます。(しばらく後に、種明かしするかもしれません)眼前の文章・話をもとにした自問自答、自学自習のみが貴重な歩行(思考)の機会になるだろうと考えたからです。それが(自己)教育の出発点(スタートライン)にほかならないと思います。教師でも親でも、自分の経験不足を自他に対して隠さない方がいいですね。どなたにとっても経験はいつでも未経験と表裏していますから。
蛇足ながら

引用した文章は大村はまさんの哲学(思想)でしたね。ぼくが痛感するのは、この言葉がうまれるためにはま先生はどれくらい苦悩したか、事実しばしば立ち往生したこともあったそうです。したがって、この言葉には彼女の全体重(40キロあったかな)がかかっているという重みですね。あるいはおそらく教師生活数十年の経験のなかから紡ぎだされた、まるで『夕鶴』の「つう」がなしたように、身命をかけた末にうまれた信念であり、真情だろうと肝に銘じてきました。
善は急げ、そして悪も急げ。というわけで、おおいにフライング(flying)です。まさに「飛んでます」。世にはやりの「前倒し」とやら。次週からは期日を厳守します。(というのは、あくまでも心がけ、心づもりです)あるいは遅れることもあるでしょう。(2020/02/27)