今週のことば(20/03/15)

  個人(わたし)・社会(わたしたち:市民)・国家(国民)について

《…要するに国家は自分たちで作ったものでありそれに対して社会の方が大事であって、社会の場から国家を作り直す。トム(トマス)・ペインが『コモンセンス』の中で「社会は人間の幸福を増進する機関であり、本来からいえば国家などはいらないのだが、人間は道徳的だけでやっていけない者が出てくるから、やむをえず国家を作って、国家によってそれを処罰する。だから処罰するものとしての国家と、幸福を増進するものとしての社会と、どっちが大事かといえば、それはもう社会が大事に決まっている」と非常に簡潔な言い方で書いておりますね》

《…それで、アイデンティティは組織のアイデンティティで、組織というのはやっぱり自分にとって素となるものですから、組織に自分を一体化しても、どこかに自分のアイデンティティは残る。それでつらいわけです。

 とにかく奴隷根性を生み出すものは何かと言うと、それは丸抱えです、日本国家に丸抱えになり、会社に丸抱えになっている限り、いくら近代的自我とか主体性と言ってもだめです。地位競争の不安だとか、あるいは家の見栄えの不安だとか、盆暮れにものをやり取りしなければならない不安だとか、そういう煩わしさをぼく(註、久野)はしらないものだから、このごろになって、大変なことだなあと思っているんですけれども、それはやっぱり、そういう、親なら親のマスク、子供なら子供のマスク、会社員なら会社員のマスクをつけているからですね》(「この不安はどこからくるか」)

 発言の主は久野収さん(1910-1999)。思想家。戦前戦後を一貫して「わが道」を歩いた人として、ぼくは深く敬意を表してきました。とにかく「おしゃべり」でこれほど話(雑談本来の軽妙であり、芯があり、深さも広さもある)の好きな方は絶滅種でした。まあ3D(three dimensions)のような語りびとだったと思います。いまでも久野さんの長広舌が耳についています。戦前は「土曜日」の、戦後は「週刊金曜日」の後ろ盾でした。

「憩ひと想ひの午後」

 上の発言は対談の一部だと思われますが、とても重要な指摘がされているのではないですか。この部分(個人・社会・国家)については拙論をどこかで騙りたい気がします。社会と国家は構造がちがう。ペインの言う通りですね。国家なんぞほんとはいらない。無政府でいいんですが、それでは乱暴者がでてきて始末に悪い。乱暴者が出るのは、いずれの時代や集団でも防げない。その問題はまたの機会に。

 ネットで先ほどニュースを見て(聞いて)いたら、どこかの総理と名乗る人物が現下のコロナ問題やそれにかかわって生じている経済問題を「国際社会と緊密に…」とかなんとか言ってました。国際=国同士=international で、社会=さまざまな集団=society です。この二つをつなげるとどういうことになりますか。国々が集まる社会(?)孫亀の背中に親亀が乗ってるんですね。とまあ、久野さんの発言から大きな(大事な)問題が引き出されそうです。「市民」というのが最も重要なカギとなります。

 マスクのことを言ってますよ。ほんとに不足なんですかね。いろいろなところから、次々にでてきますから。まだなんか隠されている。

 国民ではない市民の到来を。国家は戦争する、市民はそれに抵抗する。権力への反抗は市民の権利であり義務だと、ソローもペインも主張しています。ぼくは山の中に住んでいるが、一「市民」ですよ。国家機構の単位では「町民」だけどさ。この島に限らず、歴史にはいつでも「市民」は存在していたんですね。(2020/03/15)