今週のことば(20/04/12)

 「私は戦後一貫して、原水爆問題、労災、公害、安全性、原子力問題などに対して、主として私の技術論の立場から取り組んできた。これらにおいて、学者グループ、労働組合、市民運動とともに歩いてきた。また私の専門の物理学そのものの研究をグループでおしすすめてきた。このような活動を通じて、その根本的な哲学的な概念として、人権と特権という対立した考えを基本において考えるのがきわめて有効であるということがわかってきた。(中略)

 特権と人権の論理を要約すると、特権は私権及び身分をあらわすものであり、差別の論理である。これに対して人権は連帯の論理であり、身分や国家をはなれた、職能の立場、すなわち労働者とか、学者とか芸術家とか、いわゆる職に貴賤はないといわれる立場を意味する。特権と人権は対立した概念であり、一人の人間において両者が常に拮抗しているものである。(中略)

 特権と人権について例で説明して見よう。大学教授が学問の研究をやるという立場と、大学教授である、とくに東大教授であるといった身分の立場がある。学問をやる、言論の自由、研究の自由というのは人権だと私は考える。それに対して、おれは東大教授である、おれのいうことをきけというような調子のことは特権の立場である。学生でも学問したり、大学の自治とか、学生にふさわしい利害にとらわれない主張をするということは、これは学生の人権だが、おれは東大の学生であるなぞといったこと、就職のためばかり考えるのは特権の立場である。(中略)

 例えば、看護婦は医者にこき使われている。…医者の命令の下で一方的に使われている。ところで、看護をやっている人たちは今度は患者に対して特権を行使することになる。

 昔、軍隊で下士官というのがあって、下士官根性などという言葉もあるぐらいに下、とりわけ初年兵に対してはたいへんな威力をもち、上の命令をくむという形でいじめた。だから下にいけばいくほど特権が存在する。

 以上のように一人の人間に特権と人権という二つの基本的なカテゴリーがついて回る。すなわち特権と人権というカテゴリーは、一種の実存的なカテゴリーである。実存的なカテゴリーと階級という社会的な一つの集団としてのカテゴリーとをどうつないでいくかが現在のテーマである」(武谷三男「特権と人権の思想」『特権と人権 不確実性を超える論理』勁草書房。1979年)

 教育とか学校という枠組みでこの問題を考えると、どのような点が明かされるでしょうか。はたして、「差別の論理」や「連帯の論理」という視点はいまなお有効だろうか。学校では特権と人権が入り乱れて、じつにやっかいな事態を生んでいるのも事実でしょう。「パワハラ」「いじめ」などの問題はまさにそれに相当します。「身分」と「職業」という視点を武谷さんは出されていますが、別の角度からこれをみれば、「社会関係」と「人間関係」という観点もまた成立するようにぼくは考えています。

 詳細は別の機会に譲りますが、「社会」関係とは集団内における地位(役割)と地位の関係の問題です。教師と生徒、校長と教員、教育長と校長などなど。社会的地位の「上下」関係のなかで特権を振りまわす(まわされる)状況を生むことが多々あります。「人間」関係とは地位や役割(特権と・非特権)を越えて結ばれる(人と人)関係をさします。ここ「特権と人権」の問題は家庭という小単位でも起こりえる問題でもあります。(いずれ機会を設けて拙論を述べることにします)

 教職は身分(特権)でもあり、職業(人権)でもあります。教師である「わたし」は、その身分により優位性を認めるのか、いな職業(労働)としての営みに重きを置くのだろうか。この問題も一筋縄ではいかないでしょう。特権を振りかざすから人権を盾にして対峙するのですが、対峙する「人権」が実は「特権」に急変してしまう。身長が170cm の人は、180cm の人に向かえば「低い」し、160cm の人に対すれば「高い」となる。どうもそんな、相対的な性質を「人権」「特権」の問題ははらんでいるようです。その時、ぼくたちがとるべき姿勢(位置)はどのようなものとなるのか。

重いのか軽いのか(勲章)

 島の「最高権力者(だれや)」は最高の特権を振りまわすのでしょうが、これが米国の「最高権力者(だれや)」の前だか横だかに位置すればどうなりますかね。「借りてきた犬」じゃないですか。媚(こ)びて諂(へつら)うのが関の山。「トランペット」と揶揄(やゆ)されるゆえんです。それで迷惑をかけられるのはだれか。「特権」を振りかざすものは、それを越えた「特権」にはまことにだらしないんだね。武谷さんの言われる通り(軍隊の例)かもしれない。人間の中身の程度じゃないんです。座る椅子の「権威・箔(はく)」による。座る椅子にこそ魔力があるのです。権力争いは(殺人をも伴う)「椅子取りゲーム」ですな。(駄文が長くなりすぎたけれども、これは特権の行使でも人権の主張でもありません。ぼくの悪癖にすぎない。まだ少し自覚が足りないんですね。悪しからず)