人間というのは、十五歳ぐらいになったらもう生き方が身についてしまっているんだ。こうすれば人に喜ばれる、こうすれば褒められるっていうことをみんな知っているんだよ。そういうのは、質問しに来るにしても、側によって来るにしても、こうすれば相手が喜ぶだろうと判断して寄って来るんだ。これは意識じゃないんだ、無意識で出るんだな。

人間には器用と不器用とがある。器用な子はだいたいそういうことができるんだよ。そうすると、学校の先生はそれを読み取れないで、その子を持ち上げる。こういうことをいったら褒められるだろうということを聞くんだからな。それを褒めてしまうから、ろくなことにならないんだ。その子はそれがいいと思ってしまうんだ。そうやって持ち上げたって、いいのはそのときだけで、ほんとうはその子のためにはならないんだよ。

だから、学校では器用な子はいい子だよ。先生ばっかりではない、親もそうだよ。うちでも学校のように三年間ぐらいで追い出すんだったらそれでもいいよ。しかし、それじゃ何も身につかいないよ。
俺は器用な子はだめだっていうんだ。器用な子は頭の中も器用なんだから。これはほんとだ。頭の中が器用というのは恐いで。(小川三夫『不揃いの木を組む』草思社刊)
神社仏閣建築の職人さんである宮大工の養成のために「鵤(いかるが)工舎」を主宰していた小川三夫さんの大工の棟梁としての経験に裏打ちされたお話です。小川さんは1947年に栃木県に生まれ、三度の入門志願を断られた後に法隆寺の宮大工・西岡常一さんに弟子入りしました。時に21歳でした。法隆寺修復、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔の修復・建立などに西岡さんの下で副棟梁として従事。77年に鵤工舎を設立されました。現在、工舎は子息に譲りましたが、なお現役としてさまざまな活動をされています。

器用と不器用といいますが、つまりは要領がいいか悪いかです。学校では器用で要領のいい子が評価されます。不器用はののしられます、教師からも子どもたちからも。一例として、「草取り」をあげてみます。要領のいい子はサッと抜き取り、いかにも手が早い(時間をかけないという意味、誤解のないように)。ところが、不器用人間は時間ばかりかかり、仕事がはかどらないと文句を言われます。しかし、両者の仕事をよく見れば、器用人間は目に見える場所の草だけを抜いていたりしますが、反対に不器用人間は、だれも見ないような物置の背後の草まで抜き取ったりして、時間がかかる。それを教師は要領が悪い、愚図だなどど見下げたりすんじゃないですか。
親が子どもに対して口うるさく多用する言葉は「早くしなさい」ですね。経験あるでしょう。とにかく早く(ファストレディかね)です。どうして早くなんだか、よくわかりません。以前に住んでいた家の隣家のおっ母はいつもどでかい声で、「なんでもいいから早くしな」と五、六歳の子を罵っていました。最悪の愚行だ。また、最悪の教師が口にするのは「静かにしな」ですね。これも経験ありでしょ。静かにしたくなるような授業ができるといい教師になるんだが。目でせんべいを噛むみたいで、それはできないよ。
うさぎとカメ。どっちがかけっこで勝ちましたか。うさぎはカメを侮って途中で眠ってしまう。その横をカメはゆっくりとですが、駆け(歩き)抜けていきます。(どうしてカメはうさぎを起こさなかったのか、という疑問というか、カメに対する不信感がぼくにはありました)両者が競争する(させる)こと自体がまちがってるよ。どうも、学校ってのは、このまちがった競争をつねに強制しているんじゃないですか。アリとキリギリスもそうだ。でも、ぼくはいつでも、わけのわからない土俵(競争)には上らないことにしていました。かけっこ(徒競走)は歩きの時間でした。他人と競争するのはじつにいやでした。(どうせ、勝つからさ。弱い者いじめはいやだった、というのは嘘だ)

一つひとつの仕事において、他人の目(評価・評判)を気にして要領よく(手抜きですな)仕上げる人と、「お前は愚図だ、鈍間(のろま)だ」と文句を言われても、最後まで手を抜かないでやり遂げようとする人間。長い時間の経過の中で、両者の差はどのようになっていくのでしょう。身につく作業(訓練)、という経験は人間を成長させてくれますね。 (ぼくは「器用」だし「不器用」だ)