先生は、教えてあげることなんて出来ないと…

 Hélène Grimaud (エレーヌ・グリモー:数年前来日公演が予定され、つれあいと出かけるのを楽しみしていたのですが、来日間近かで、キャンセルになりました。理由は「肩の故障」だとか。近年ではめったに演奏会にはいかなかったので、まことに残念でした。彼女の演奏は、まあ、一曲聴いて下さると分かりますね)(大変な趣味のようで、というのは不正確な言い方で、彼女にとって、狼は欠かせない仲間のような存在だという、それで、この人はたくさんの狼を育てています。だから「肩の故障」も、それと関係があるんじゃないか、とかみさんと話していました)

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 “知性と感性を育て、感動と共感を育む教育” 

 二十年以上も前に、九州地方のある公立高等学校に出かけたことがありました。教育に関する「雑談」でもしてほしいという依頼があったからです。奇特は方がいるんですね、この世には。一種の講演とでもいうのでしょうか。ぼくは「雑談大好き」人間でしたから、遠方にもかかわらず日帰りでしたが、喜んで引き受けました。その雑談の内容はともかくとして、ぼくが興味を持ったのは、校舎前庭のアプローチにあった石碑でした。そこに掲げられていた「教育目標」、それが冒頭(小見出し)に挙げたものです。ほんとうに素晴らしい教育目標でしたね。ぼくもこのような学校で学びたかったと、一瞬思ったほどでしたが、さて、その目標を達成するための教育方法はとなると、ぼくにはよくわかりませんでした。その学校は県内でトップの偏差値とか大学合格率を誇っているということでした。「知性と感性」「感動と共感」を育むM高校の教育の前ではなにごともいえずに、帰りたくなったのは事実です。「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される」といったのは隣県の高校の、往時の英語教師だった夏目漱石でした。「智と情」、これが漱石の「草枕」のテーマだったと言えなくもありません。一貫していたのは「非人情」という世間の喧騒や厄介を離れた、個我の境地を謳歌しようとしたものでしたろう。主人公は絵描きでしたね。

 この島に西欧の教育思想が流入した明治初期以来、学校教育は、個々の子どもたちの「知・情・意」の涵養であるということに相場が決まったようです。簡単に言えば、「知性」と「情操」と「意志」を育てるというものでしょう。「知育・徳育・体育」などとも唱えてきました。学校教育の目標に掲げられたのは、このような「観念」で知られる科学的、あるいは道徳的、芸術的な価値でした。そして、それぞれの方面の価値を「科学的」「芸術的」「道徳的」領域に定めて、各教科がそろえられてきたのです。やがて、そのような「教育価値」を「知・情・意」と簡略に表現することが生じてきました。それぞれの価値を別の、もっと広い範囲を含むものとして表現されたのが、「真・善・美」というものでした。「知・情・意」が人間の内面にあるとされる素質だとすると、それをさまざまな教育活動(実践)を通して養う、その活動を通して追及すべき諸価値を「真・善・美」といったのです。この教育商品は、ドイツ観念論哲学の直輸入でした。教育目標の「三領域」とでもいうべき内容を持っていました。今に至る「三領域」論です。

 ぼくが大分県の高等学校で見たのは、このような人間の能力、あるいは素質を育てることが教育であるという、その学校独自の「教育宣言」でもあったのです。とはいえ、このような形式は全国のいたるところで認められます。古くからの伝統を誇る学校も、近年できたばかりの新設校も、どれも似たような「教育宣言」になるのは、一面では当然のことで、それ以外に、どのような能力を学校教育によって育てるのかということだったでしょう。「人間形成」というものを、先ずは、大まかに分析すれば、そのような三領域に含まれる能力(素質)を育成することになるのは、あたりまえのことでした。それでは、はたして「知性・情操・意志」がうまく学校教育によって育てられたかは、その学校の生徒たちの成長を見ると同時に、そのような学校教育が普及してきた島社会全体の動向ないしは風潮を見れば、よくわかるはずです。現状はどうか。近代学校制度が導入されたのは明治五年。以来、ほぼ百五十年が経過しました。

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 “知性と感性を育て、感動と共感を育む教育” こんなことが、果して「学校」という集団主義の巣窟、いや「メッカ」のような聖地で可能なのだろうか、そんな疑問はぼくについて回っています。おそらく、解消されることはない。そもそも、学校というところは、人間を育てるどころか、反対にダメにするところじゃないんですかという印象すら、ぼくは持ってきたからです。もちろん、今でもその感覚はなくなっていません。学校は、いったい何をしてきたんですか、「教育」という美名において。もちろん、「教育」がどんな場合も、素晴らしい可能性を持っているとは言えない道理です。時と場合によっては「洗脳教育」ということだって生じたことはいくらもあるのですから。ここでは、あまり過激なことは言わないことにして、(もともと、ぼくは小心者ですから、命令されてもそんな激情的なことは言えません)もっとも素朴単純に、人間の「素質」を歪曲しないで、成長させるために「援助」あるいは「補助」すること、それが学校教育の(最大限できる)最善の仕事です。つまりは、子どもをダメにしないこと、勝手な方向に子どもたちを歪めないこと、ということになれば、もうこの段階で、「学校では、そんなことは無理や」「八百屋で魚を買うような、あらへんものを求めてどうすんねん」。元関西人としては、どうしてもそのように言いたくなるのです。

 数年前までは、ぼくも、拙劣ではありましたが、教師のまねごとをしていましたから、教育や学校という問題にいつも頭を悩ませていたのです。児童や生徒にとって、教師とは何者か?先生というのはなにをする人か?という、考えてもきりがない問題にいつでも、往く手を阻まれていた。つまりは、立ち往生してばかりいたのです。いわば、現場(教室)で立ち往生して、給料をもらっていたような塩梅でした。授業をまともにしない(できない)で、学校にぶら下がっていたのかもしれない。「知・情・意」あるいは、「知性や感性を育て、感動と共感を育む教育」、そんなことはぼくには不可能だし、殆んどの学校でもできない相談だと確信していたほどでした。だから、その罪滅ぼしか罪障逃れで、「進学実績」や「受験教育」の「達成度」を誇ることに、あるいは甲子園や花園、あるいはその他の「●✖甲子園」における競技成績の優秀さを誇ることになったんじゃないですか。目標は高遠に、実践は陳腐に。この学校では、はなから「知・情・意」を育てることは止めました、それはできない相談、その代わり、…に、という学校が少なくないのは、この事情を明かしていると、思われてきます。

 どなたでも運転免許資格を取得するときにはかならず「自動車教習所」に行きます。そこに行かなければ運転できないわけではなさそうです。でも必ず行く。法律で決められているからです。その自動車教習所の「教育目標」は、「知・情・意」などという面倒なことは言わないはずです。運転技術が「基準」に達するまでの「教習」をする。それが役割だから。けっして「人格を完成する」などと、できもしないことは言わない。また、そこに通う人も、当たり前に、教習所の教師の人間性や対話術に魅力を感じて、あるいはその才能に惹かれて、そこを選んだということもなさそうです。バカバカしいことを言っているようですが、「八百屋で魚を」という荒唐無稽なことは、だれも望まないからです。一日でも早く、どこよりも割安で「免許資格」を取りたいという狙いはあるでしょうが、それ以外に学校を選ぶ基準はなさそうですね。

 ところが、教育制度として成り立っている「学校」には、教習所とは異なった、人間性をよりよく育てるための目標、あるいはその目標を達成するための方法などが、どの学校でも(できるかできないかは別の問題として)セールスポイントにしています。ぼくが言いたいのは、自動車教習所のような「実技」「実習」に特定した教育方針をなぜ立てないのか、「進学実績を上げる」「数学」や「歴史」などの各教科の偏差値(成績)を保障すると、そのようなことを、どうして「教育目標」にしないのか、ということです。偏差値の向上、進学実績の充実を、個々の子どもに応じて進めるという目標を前に出した方がはるかにすっきりします。でも、そうならないのはどうしてか。現実には「偏差値ランキング」の上位を目指すことに取り組んでいるのなら、それをセールスポイントにして、「知・情・意」なんとかかんとか、そんなことは言わない方がいいのではないですか、ということです。

 これは冗談で言っているのではなく、例えば、数学の教師はそれを教授する能力や技量を求められているのです。それとはかけ離れたような「教師の資質」などという抽象的なことが求められているのではないんですね。もっと言えば、数学の教師は「数学を教える」のが仕事です、でもそれ以上に「その人の何か」が生徒たちに伝わるのではないでしょうか。国語の先生は、国語を教える以上に、それを超えた「何か」が子どもたちに伝わるのであり、そちらの方こそ、実は教師の仕事では大切なことなのでしょう。ぼくたちが何かの折に、「教師の想い出」「想い出の教師」を語るときは、教え方や板書の仕方などではなく、ちょっとした発言や身振り、ふともらした一言、そのようなことからの印象が強く残っているからこそ、想い出の種になるのでしょう。教師の「魅力」や、その反対に、教師の「嫌われる部分」は、おそらくこのようなところに示されるのだと、ぼくはずっと考えてきたのです。「歴史を教える」教師は、教える以上のものを「同時に伝える」のです。これは、すべて「教える」ということに関わって起こっている事柄です。技術・実技・実学などと言われる分野でも、同様のことが生じていると、ぼくは見ています。

 まったく別の方向から、教育の問題を考えることにします。やがて、それが「集団主義」を旨とする現在の学校教育問題に符合するのか、はたまた、衝突するのか。さっそく始めてみます。 

 このことを考えるヒントを、あるいは、「音楽教育」において見出せるのではないかと、長い間考えてきた。いろいろなスタイルの「音楽教育」がありえますから、一概には言えませんが、ぼくが考えているのは、これまでにも、少しばかり垣間見たこともある「一対一」というスタイルです。ほとんどの学校教育は「一対多」が相場だと言われますが、たしかに表面から見れば、そうでしょう。でも実際はどうなのか、そのことも含めて、すこし音楽教育に関わらせて考えてみたいんですね。「一対多」を徹底して見つめていくと、きっと「一対一」になる、「一対四〇」は、「〔一対一 〕✖ 四〇」になるに違いないというより、実態はそうなっているんじゃないですか、それを、ぼくは経験で学んできたのです。どんな子どもも、四十分の一として教師に接しているわけではないんですよ。「四〇」人の集まり、教師の側から見た表面の姿は「ひとかたまり」かもしれない、でも、実態は、何人いても、一人ひとりです。人間集団(クラス)をかたまりで見るという悪習を排除する、これは大事なことじゃないですか。

 この駄文が狙うのは教育の問題を考える、いわば「練習台」を提供することです。それは、何か特別の制度や組織、あるいは目をむくような才能や技術を要することではなく、毎日、寝て起きて、顔を洗って(洗わないこともある)、ご飯を食べる、さらに…。つまりは日常茶飯事ですね、教育問題もまた、それでしかないんです。音楽教育は、何か特別の教育なのかどうか、それもあわせて考えたいと思います。自分で歩く道を、自分の足で歩く、その「常軌歩行」を放棄しない、そんな「平凡な日常の徹底」、それがいつでも求められているのでしょう。

 ある音楽家の言葉を紹介しましょう。いわば、話のマクラを振っておきます。旧ロシア生まれで、戦前戦後を通じて、世界的に活躍したヴァイオリン奏者だった人の言葉(教育についてのヒント)。この言葉は、そうとう前に、ある雑誌から切り取るようにして残しておいたものです。それがどの書物だったか、今は所在が不明です。おそらく、この駄文集を始めるきっかけにもなった、ジョン・ホルトというアメリカの学校教師だった人の本の中に出ていた言葉だったような記憶が、曖昧ですが、かろうじて残っています。その内に、もう少し前後の脈絡を付けて、紹介したいと思っているのです。(この人の、この「言葉」が大変に好きなものですから、芸のないことですが、あちこちで紹介してきました。それを、ここでもまた)

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 《 先生っていうのは、そんなに役に立たないと思うな。今の若い人は、先生のところへ行けば何かを教えてもらえる、などと考えている。違うんだよ! 誰も教えることなんてできないんだ。教わろうったって無理なんだ。先生はたしかに上手に弾けるだろう。しかし、それは彼自身の方法で上手に弾けるんだ。それをいくらそっくり真似たって、同じ音など出せっこないよ。

 だから私は、こう思うんだ。教師の役目とは、生徒の心を開いて、生徒自身が進歩していくことを助けることだと。その意味で先生は、教えてあげることなんて出来ないとハッキリ告げるべきだと思うね。生徒は、自分の力でやり遂げなくちゃならないんで》(ナタン・ミルシュタイン)

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 たったこれだけです。ぼくには、これだけで十分すぎる「教育原理」あるいは「教育哲学」だと思っているのです。それじゃあ、これで何を言おうとするのか、そこが問題です。ミルシュタインは音楽(楽器演奏)教育について語っています。だから、それは通常の学校教育には通用しないと言われるかもしれない。一見すると、そうですが、人に教える、人から教えられるという点では、原理はいっしょです。知らないから教えてもらう、それでいいでしょう、と多くの人はいうかもしれないけれども、「教えられる」ことの中身について、それをどのようなものとして受け入れるのか、それは断じて教師の側の問題ではなく、「教えられる」生徒の問題であるのです。誰でも、そのように理解しています。

 適切な例ではないかもしれませんが、「馬を水際まで連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」( A man may lead a horse to the water  but he cannot make him drink.)という「ことわざ」のようなものがあります。これはどのような意味でしょうか。「無理にでも、馬を水のあるところに連れていけるかもしれぬが、水を飲む(飲まぬ)のは、馬がすること」というのでしょ、それと同じとは言いませんが、「いいとみなされていること(水飲み場まで導く)」を教えても、それを受け入れるか(自分のものにするかどうか)(口を開けて飲むか)、それは(教えることと)別の問題であると言ったらどうでしょうか。しかし、ホントは「教える」というのは、そこまで問題にしなければならないんですね。それをどのように「受け入れたか」「確かに、自分のものにしたか」、そこまで責任がついて回ると言ったら、なんとも辛気臭い仕事だと言われるでしょうね。「教えることは教えた。後はそれを自分のものにするかどうか、本人次第なのだ」などと言って、教師は済ましていられるでしょうか。

 また少し違った意味合いが含まれるかもしれませんが、「論語‐子罕」の「三軍可帥也、匹夫不志也」(「三軍も帥(すい)を奪うべし、匹夫(ひっぷ)も 志を奪うべからず」)を参考にすると、どういうことになるか。

 その言わんとするところは、「どんなにいやしい者でも、しっかりした志を持っていれば、だれもその志を変えさせることはできない。人の志は尊重すべきであるということ」(デジタル大辞泉)と、(いくらかは問題がある理解だといいたいが)その大意は「他人の志は尊ぶべし」というのでしょう。教える側からすると、つべこべ文句を言わないで、言われたとおりにすればいいと言いたくもなりますが、その反対のような原理、これが教育行為の原点でもあるのですから、おろそかにしてはならない視点だと言えます。馬とか匹夫などと、宜しからぬ例を挙げたのですが、他意はありません。教育されるべき対象の意志やこころざしを慮(おもんぱか)ることを基点・起点にして、はじめて、願わしい「教育」に向かって出発するものだ、出発地点に立てたと、ぼくは考えている。

 ミルシュタインの全盛期は第二次世界大戦前でしたから、ぼくはその華やかさを知るはずもありません。ぼくが聴きだしたのは六十年代からで、戦後の彼の演奏の一面を、レコードによって聴いたにすぎません。十枚くらいのレコードをとっかえひっかえして聴きました。レコード録音が日進月歩を開始する直前のレコードでしたから、「音の貧しさ」は覆うべくもありませんでした。それでも、繰り返し、彼の演奏に聴きほれたのでした。彼以外にぼくが好んで聴いていた演奏家(ヴィオリン)は多くいます。ハイフェッツ、シェリング、スターン、スークなどなど、両手では足りません。個々の演奏家の演奏ぶりを話したいんですけど、悪趣味の押し売りのようで、我ながら気が引けますので、止めておく。(ホントはしゃべりたいけれど)

 さて、このナタンの教育・教師論(というほどのものではありませんが)をどのように受けとめられましたか。なるほどな、と感心したのか。それとも「おかしいな、教師は教える人なのに」と思われましたか。「教師ってのは、何かを教える人じゃない」といっていませんか。教えてはいけないというより、教えることができないって。肝心かなめの事は「教えられない」、それはみずからが習得・体得する以外に自分のものにはできないのだ、と。

 再言しますが、これは彼の「頭の働き(観念)」からの教師論ではなく「経験」から身につけた(身についた)ものだということです。誰がどういおうと、「自分はこうやって、ヴァイオリン演奏の核心部分を学んだ」「教師の役目とは、生徒の心を開いて、生徒自身が進歩していくことを助けるべきだということ」、これは何も音楽教育に限らない。大工さんや調理師などの職人にも共通する「教えの本義」「教えられる本意」だと、ぼくは受け止めてきました。このようでなければダメとは言わないが、でも実際はダメなんですね。なにがダメか。「教えられると思っている」「教えてもらえる」という姿勢や態度(根性)です。「教えたって、できないのは君がいけないのだ」というなら、それは「教えた」ことになるのか。こんな簡単なことだって、上手く解決できないではありませんか。大事なことは、自分で感得し、体得するものだから、教師の仕事は、貴重でもあり、興味深いものがあるんですね。(犬の訓練とは違う、受験指導とは違う、まったく別種の「教育する心」を必要とするんじゃないかな)

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 ここで突然のように、ひとりの女性の登場です。ご存じでしょうか。前橋汀子さん。ヴァイオリニストです。若いころの彼女の演奏を、ぼくはしばしば聴きました。しかし、このところまったくご無沙汰していた方です。ピアノの中村紘子さん(2015年7月没)やヴィオリンの潮田益子(2013年5月没)さんが、近年亡くなられたと知りました。この方々は、ぼくとほぼ同年齢でした。大学に入ってからは、ぼくは日本人の演奏家に対しては熱心な聴き手ではなかったと白状します。でも、当たり前には、彼女たちの演奏は注目していたのです。たしかに「輝いて」いました。「輝き」すぎていたかもしれない。60年代の後半頃からです。前橋さん、潮田さんが気になりだし時期でもあった。この島国の音楽演奏家が「輝き」を強烈に放ち始めた段階に差し掛かっていました。三人ともに桐朋学園に入られたと思います。そこにはヴァイオリンに関しては斎藤秀雄氏、小野アンナ氏がおられた。

前橋汀子

 つい最近、ほんの数日前になります、ばくは、何十年ぶりかで前橋さんのレコード演奏を聴いたばかりです。彼女は、颯爽(さっそう)と、あるいは堂々と演奏をされていました。「巨匠」(ヴィルトゥオーソ)(virtuoso)といってもいいのではないでしょうか。そんな形容はともかく、この域に達するには、どれだけの訓練に耐えてこられたか。彼女の経歴の紹介や解説は省略し、また具体的な音楽教育の一々についても語ることはしません。彼女が越えてきた「茨の道」(だったと思う)は、誰にでも踏破できるものではなかったことだけは確かです。またその技量才能の開花は学校教育によってなされたとも言えないでしょう。自分自身がおのれを鍛えてきたということであり、その「精進」が途切れなかったのは、音楽演奏に向けられた彼女の深甚の情熱であったと、他人であるぼくは言ってみたくなります。(上にある記事は「私の履歴書」日経新聞連載・2018/10/03分)

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 以下の記事は、あるインタビューで話された前橋さんのお話です。一読するだけでも、いかなる種類の「教育」にも、おそらく認められるものでありますが、教える側と教わる側にどんなことが生じているのか(ある種の化学反応)、それがわかるような気もしてきます。

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チケットのご予約

「プロコフィエフが亡くなった1953年に、実は日比谷公会堂でシゲティの追悼演奏を聴いているのです。そのとき子供だった私は偶然シゲティに頭を撫でられて、ずっとお会いしたいと心に秘めていました。アメリカの生活が性に合わないこともあり、ヨーロッパに行きたい思いが膨らみ、スイスにシゲティを訪ねたのです。シゲティ先生はとても筋の通ったリアリストで、何をやっても大成しただろうと思う方でした。「27才までに自分の立ち位置を確立しなさい」と。コンクールなどで別の国に行ったりすると、指使いのアドバイスを書いた手紙をいただき、僕が死んだら売れるから大事にしろとのユーモアに富んだメッセージがあったり、こちらが出した手紙も添削されたり、返事はすぐ書くように言われたり、ヴァイオリンだけでなく、人としての在り方全般を教えてくれました」

 「また、スイスでは、やはり大ヴァイオリニストだったナタン・ミルシテインにも出会って、レッスンはもちろん、ホテルの部屋で練習するのを聴かせてもらったり、高級レストランでご馳走になったりと、よくしていただきました。彼は飛行機に乗らないので、日本に唯一来なかった巨匠ではないでしょうか。ミルシテイン先生は当時演奏家として現役でしたから、ちょっとした演奏上のアドバイスは今でもとても役に立っています。譲っていただいた皮のミュート(弱音器)も大切に使っています」

前橋汀子

 「2人とも偉大で、人間的にも素晴らしい方でした。シゲティの演奏は今聴いても本当にすごい。1つ音を聴いただけでシゲティと分かりますし、何より彼の「音楽」が聴こえてきます。単純にきれいとか美しいとかではなく、有無を言わさず惹きつける魅力。ミルシテインにもそれは言えます。今だったら、彼らにあれもこれもとたくさん話を聞きたい気持ちです。音楽には最終的にはその人自身が出てきます。美しいというのは何をもって美しいのかという問題がありますが、シゲティの音楽にも絶対的な美しさが存在しているのです。あの時代は皆がひとつのものに一心に向かう姿勢があって、それは今も失いたくはないですね」(略)(「ヴァイオリンに生きて。魂の半世紀。ヴァイオリン」:前橋汀子 2013年1月26日(土)(上の二枚の前橋さんの写真は、フィリア通信から拝借)((https://www.philiahall.com/archive/interview/130126/index.shtml )

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○ ヨーゼフ シゲティ(Joseph Szigieti)=1892.9.5 – 1973.2.20 米国のバイオリン奏者。元・ジュネーブ音楽院教授。ブタペスト生まれ。ブタペスト王立音楽院でフーバイに師事し、1905年13歳でデビュー。ヨーロッパ各地へ楽旅し、’17〜25年ジュネーブ音楽院教授を務める。’25年アメリカでデビューし、’40年アメリカに移住、’51年にはアメリカ市民権を得たが、’50年代後半からヨーロッパに戻り、晩年スイスに移住し、指導にあたった。彼に師事した日本のバイオリン奏者に、潮田益子前橋汀子などがいる。(20世紀西洋人名辞典)

○ ナタン ミルスタイン(Nathan Milstein)1904.12.31 – 1992.12.21=米国のヴァイオリン奏者。ロシア出身。ペテルブルグ音楽院に入学し、レオポルド・アウアーに師事。1923年から国内演奏活動を行い、ホロヴィッツと度々共演。’25年パリ、ベルリンへのデビューを機に西側で活躍、ホロヴィッツ、ピアティゴルスキーとのトリオ演奏も行う。’29年アメリカデビューし、大成功。’42年帰化。今世紀屈指の名ヴァイオリニストとしての地位を確立。’66年オーストリアから第一級十字勲章、他にレジョン・ドヌール等叙勲する。ジュリアード音楽院で教鞭もとり、技巧派で、気品のある演奏は定評がある。(20世紀西洋人名辞典)

シゲティと

ミルシュタインと

○ 前橋汀子(まえはしていこ)1943- =昭和後期-平成時代のバイオリニスト。昭和18年12月11日生まれ。5歳から小野アンナに,その後,桐朋学園子供のための音楽教室,桐朋学園女子高で斎藤秀雄,ジャンヌ=イスナールに師事。レニングラード音楽院卒業後,ジュリアード音楽学校留学。シゲティらに師事する。昭和42年ロン-ティボー国際音楽コンクールで3位に入賞。国際的なソリストとして活躍。平成16年芸術院賞。19年エクソンモービル音楽賞。23年紫綬褒章。大阪音大教授。東京都出身。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)                                            ◆前橋汀子「序奏とロンド・カプリチオーゾ 作品28(サン=サーンス)」( https://www.youtube.com/watch?v=5L7fF_oBEsU

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(Saint-Saëns: Introduction and Rondo Capriccioso, Milstein & Süsskind (1960)(https://www.youtube.com/watch?v=LCu71hRTyx0

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○ エレーヌ グリモー(Hélène Grimaud)=職業・肩書ピアニスト ニューヨーク・ウルフ・センター設立者 国籍フランス 生年月日1969年 出生地エクサン・プロヴァンス 学歴パリ音楽院〔1985年〕卒 受賞フランス・アカデミー賞グランプリ〔1988年〕 経歴 言語学者の家庭に生まれる。8歳からピアノを始め、マルセイユでピエール・バルビゼに師事。13歳でパリ音楽院入学してジャック・ルヴィエなどに学ぶ。15歳でレコードデビュー。1985年学内コンクールで1等賞を得て、卒業。’87年カンヌやロク・ダンテロンのフェスティバルに出演。以後、世界各地で演奏活動を続ける。主なレパートリーはドイツ・ロマン。アルバムに「レゾナンス」など。一方、音楽生活に行き詰まり、渡米した先でオオカミに出会ったことをきっかけに、’99年野生のオオカミの保護財団・ニューヨーク・ウルフ・センターを設立。自伝に「野生のしらべ」がある。(現代外国人名録2016)

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(隠しても始まらないので、正直に申し上げます。個々の駄文は、じゅうぶんに準備をして書いているものではありません。読まれれば瞭然としますね。いつものことですから、断るまでもないのですが、あくまでも「記憶細胞の劣化防止」のための「自主トレ」です。もう手遅れだろうなあと気にしながらのトレーニング。だから、成果も何もあったものではありません。すべては「書き下ろし」というか、下書きなしのぶっつけ本番。誤字脱字の満載で、書いた後に、気が付く範囲で訂正するという為体(ていたらく)です。お許しください。昨年二月、後輩に「唆(そその)かされて」始める仕儀に至ったのですが、始めだしたら、雑談好き人間の悪癖が全開したようで、今では「惰性」の法則の示すように、やたらに書きなぐっている始末です。徐々に、記憶力に次いで、「注意力養成」の「自主トレ」に移行していくつもりです。

 ぼくは「教職」というものについて、特別の考え(意見)、あるいは偏見を持ってはいないつもりです。きわめて平凡というか、ありきたりの教師論しか自分のものにしてこなかったし、自分自身が教師の真似事をしてきただけに、大したことも言えないのは、御覧の通りです。ここに書いて(考えて)みたいのは、音楽(特に楽器演奏)を学ぶこと、あるいは音楽(楽器演奏)を教えることに関して言えることは、じつは当たり前に、現行の学校における教師にも必要だし、子どもたちにも求められるのではないかということです。これは思い付きでも無理難題でもなく、ものを学ぶ(ものを教える)行為に備わる必須の条件のようなものだといいたいのです。気の向くままに、脈絡もなく、音楽・演奏・演奏家問題に関わらせて、学校教育論や教師論について愚考をめぐらせたいと思っています。寄り道をし、途中で休憩しながらの漫遊・漫歩になること請け合いです。今回は、その<壱>)(家人に先ほど教えられて、気がつきました。七十七歳の誕生日の直前に。2021/09/20 PM22:00)

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