
若い頃、「秋」、十月にもなると、きまって中島みゆきさんを毎日毎晩聴いていました。家では、今も、現役で機能しているタンノイというイギリスメーカー製のスピーカで、思い切り鳴らしていたし(半世紀前に購入したもの。今は猫のベッド代わりです)、外出時や電車内では、もっぱら、当時も流行っていた「ウォークマン」(カセットテープを入れて)でしんみりとしたものでした。やがてCDプレーヤーが出ると、早速それを購入し、どこにでも持ってでかけたものでした。彼女の歌を春や夏に聴こうという気にはならなかったのは、なぜだったか。秋という季節がもたらす雰囲気が、得も言われない感傷(といえば嘘になります)のような、いや、もっとはっきりいうなら、秋の気配(秋色)が、なにかと疲れがちな心身にそっと寄り添い、時には物思いを深めてくれそうでもあったからです。みゆきさん、いまではすっかり、彼女からは遠のいてしまったのは、寄る年並のせいでもあり、あまりにもたくさん聴きすぎたためでもあったでしょうか。それでも、都はるみさんは、今だって、じつにしんみりと、あるいは心で歌いながら、彼女の歌うのを聴いたり、観たりするのです。(「お前は、ド演歌派やからな」という声が聞こえます)

(● 高野素十(たかのすじゅう)(1893―1976)=俳人。茨城県生まれ。本名与巳(よしみ)。旧制一高を経て東京帝国大学医学部を卒業し、法医学教室の助手として勤務中、同僚の緒方春桐(おがたしゅんとう)、水原秋桜子(しゅうおうし)の仲間に加わって句作を始めた。高浜虚子(きょし)に師事、写生俳句に独自の風格を備えてたちまち頭角を現し、秋桜子、(山口)誓子(せいし)、(阿波野)青畝(せいほ)と並んで『ホトトギス』4Sの1人にあげられた。新潟医大教授、次いで奈良医大教授となる。1957年(昭和32)『芹(せり)』を創刊、没するまで主宰した。句集に『初鴉(はつがらす)』(1947)、『雪片(せっぺん)』(1952)、『野花(やか)集』(1953)などがある)(ニッポニカ)






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まるで秋雨前線の訪れかと思いきや、劣島のあちこちから「初雪」の便りが届きました。例年よりも半月ほども早いそうですが、十月(神無月)も半ばです。時期いたらば、霜も雪も当たり前に降りてくるのです。何の不思議もありません。どこかで触れましたが、このところ、珍しく「夜空」を見上げています。どうした風の吹き回しか、やたらに空が美しく、その空を埋めている星々の輝きが目に染み入るんですね。秋の夜、秋の空、秋の雲、秋の風、秋の道などなど、それぞれにぼくの好きな「季題(季語)」でもあります。作れもしないのに、一句嗜(たしな)みたくなるのですから、自分を忘れさせる、身の程を知らないようにさせる、なんとも危険な季節でもありますね。(身の程を知らない振る舞いは、ぼくに関しては「秋」に限りませんが)

先日、別の駄文で触れた木下夕爾さんの一句、秀逸だと、ぼくには思われます。(*愁ふ=うれふ)
・秋天や最も高き樹が愁ふ (木下夕爾)
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一年前の新聞コラムを保存していました。秋への想い・懐いを、ぼくごとき者であっても、より深められるような「コラム」でした。こういう文章に出会うというのは、あるいは僥倖(ぎょうこう)とでもいうのでしょうね。
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【三山春秋】▼作者の人生に根ざして作られた俳句を境涯俳句という。金字塔とされるのが闘病を詠んだ石田波郷の句集『惜命(しゃくみょう)』だ。34歳で結核を再発し、国立東京療養所に入所。3度の手術を経て、死の淵から生還した▼〈霜の墓抱き起されしとき見たり〉。希望と不安に揺れ、手術直後は〈たばしるや鵙(もず)叫喚す胸形変〉と絶唱。患者が次々と亡くなる療養所で死を見つめ〈綿虫やそこは屍の出でゆく門〉と詠んだ▼本県にも心臓病により27歳で亡くなるまで静かに境涯を詠み続けた女性がいた。〈医師にさらす胸は恋など忘れいし〉。渋川市に生まれた須田優子(1930~57年)である▼俳人としての活動はわずか7年ほど。そのうち6年は闘病生活だった。不治を宣告され、〈奇蹟祈れば遠くまたたく冬銀河〉と夜空を仰いだ。女性ならきっと望んだであろう心ときめく恋、愛する人と結婚し、母となる夢。〈秋夜ふと触れし乳房の冷えいたり〉。すべてを諦め、運命を受け入れていく姿が切ない▼死後、『白炎』が編まれたが、世間に知られることなく埋もれていた。光を当てたのは上毛俳壇選者の林桂さん。『群馬文学全集』の編さんのため、図書館が収蔵する句集を調査するなかで発見した▼〈人恋えばひらりひらりと夜の金魚〉。林さんによって句集が復刻され、現代俳句協会の作品年表に収録された。その名と句が忘れ去られることはもうない。(上毛新聞・2021/11/25)
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石田波郷さんは言うまでもありませんが、そこに引かれていた須田優子さんに呼び止められたような気がして、思わず立ち竦(すく)んだといった風情でした。彼女のことを少しばかり調べてみました。なかなか難しいことで、まだ十分にわかっていません。コラム中の一句、〈秋夜ふと触れし乳房の冷えいたり〉「なんと寂しい句だろう」と胸を打たれました。その余韻は今も続いています。彼女の死は、はるかの昔、昭和三十二年十月、弱冠二十七歳でした。その人の、「秋の愁い(うれい)」を想わせる三句ばかりを。
・鰯雲きしきし胸に脈しぶる ・秋霜や病めば疎まれ哀れまれ ・誰も彼もやさし生きたし露滂沱
HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH
いろいろな俳人が、いろいろは「秋色」「愁色」を読んでおられます。そのうちの一、二句ばかりを


・反故焚いてをり今生の秋の暮(中村苑子)
・この秋空死の通ることいくたびか(桂信子)
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がさつな人間には似合わないことで、せいぜいが、「秋の夕日に照る山紅葉」がいいところでしょうね。唱歌だと見下しているのではなく、この秋には、いろいろな思いが誰彼なしに襲いかかる、その秋の気配に気が滅入るのではなく、枯れる木々の葉の隣に、来る春の芽を用意している、その「摂理」に勇気づけられ、励まされているのです。
有名無名を問わず、連日のように多くの方々の訃報が、この辺鄙の地のも届きます。今なお、遠くウクライナでは数多の戦死者や被災者も。洋の東西に、「謂われのない死」を強いられる人が後をたたない。何事もできないままに、手向けの花を捧げたい。

・我もまたなにをか言わんあかね空(飯野無骨) (2022/10/07)
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