亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國

▼田中正造(たなかしょうぞう)1841-1913=明治時代の政治家、社会運動家。天保十二年(一八四一)十一月三日、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)に生まれる。父は名主役富蔵、母サキ、幼名兼三郎。少年期赤尾小四郎塾で学ぶ。安政四年(一八五七)十七歳で父の割元昇進に伴い小中村名主に選ばれる。のち主家六角家改革運動に挺身,獄に投ぜられる。明治二年(一八六九)出獄。翌年江刺県(岩手県)の下級官吏として花輪分局に勤務。同四年上役暗殺の嫌疑を受け投獄され、七年無罪釈放され郷里に帰る。同十年ごろより民権運動に志し、十二年『栃木新聞』を創刊、編集長となり民権思想を鼓吹する。翌十三年栃木県会議員に当選、以後二十三年まで議席をしめる。同年安蘇郡有志を中心に民権政社中節社を結成、その会長に選ばれるとともに、同社の国会開設建白書を元老院に提出する。その後中節社を中心に巡回演説・討論会などを開き民権運動を展開、政党結成にあたっては都市民権派と地方政社の統一による立憲政党の結成を説いたが容れられず、のちに立憲改進党に入党、栃木に一大改進党勢力を築く。十七年栃木県令三島通庸の道路開発に反対し逮捕される。十九年栃木県会議長に選ばれ、二十三年県会議員辞任まで勤める。同年第一回総選挙で栃木三区より衆議院議員に当選、以後三十四年議員辞職まで毎回当選を果たし、立憲改進党に所属する。二十四年第二議会で足尾銅山鉱毒問題につき政府に質問書を提出し、政府の責任を厳しく追及する。二十九年八月渡良瀬川に大洪水が起り、鉱毒被害は深刻化する。田中正造はこの問題を沿岸被害民の人権問題として、以後ほとんどこの問題に生涯をかけることになる。同年十月被害地の中央に位置する群馬県邑楽郡渡瀬(わたらせ)村(館林市)の雲竜寺に鉱毒事務所を設け、足尾銅山鉱業停止請願運動を呼びかけ、議会においても鉱業停止を政府に再三要求する。正造の活動もあって新聞や演説会など、鉱毒事件に対する世論が厳しくなり、政府は三十年足尾銅山鉱毒事件調査委員会を設置して古河鉱山に鉱毒予防命令をだす。しかし鉱毒被害はいっそう深刻となる。その間被害民は三回にわたり大挙請願行動(押出し)を行うも解決せず、正造は政府・政党に対し次第に絶望を深めていく。

三十三年二月、被害民の第四回押出しに対し憲兵・警察は群馬県川俣において大弾圧を加え百名ちかい指導者を逮捕する(川俣事件)。正造は政府に「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国」と題する質問書を提出、政府の態度を厳しく批判する。川俣事件被告のために大弁護団を組織し、その救援にあたったが、同年十一月の公判廷で検事論告に憤り大欠伸をして官吏侮辱罪に問われ、のちに四十日間の重禁錮、罰金五円の実刑に処せられる。三十四年十月、議会・政党に絶望し、議員を辞職。同年十二月、鉱毒世論の喚起の意図もあって議会開院式帰途の明治天皇に直訴する。翌年三月内閣に再び鉱毒調査委員会が設置され、この調査会で鉱毒処理のために栃木県下都賀郡谷中村(藤岡町)の貯水池化計画が浮上し、栃木県会もこれに賛成する。正造はこれを鉱毒問題を治水問題にすりかえるものとして、三十七年七月谷中村問題に専念するため同村に寄留、以後、この問題に専念、演説・パンフレット・ビラなどにより社会に訴える。四十年六月、土地収用法適用により谷中残留民十六戸の家屋強制破壊に立ちあい、その後も水村谷中に残留民とともに「自治村谷中村の復活」を唱えて抵抗をつづけたが、大正二年(一九一三)九月四日、渡良瀬川沿岸の足利郡吾妻村(佐野市)で倒れ、同所で胃癌のため没した。七十三歳。佐野市惣宗寺ほか四ヵ所に分骨埋葬されている。晩年はキリスト教に深く学ぶとともに、真の治水とは何かを求めて河川調査を行い自然と人間の共生に思索をこらし、また鉱毒事件をつうじて人権と自治の思想を深めた。三十六年以来、陸海軍全廃・無戦の思想も一貫していた。『田中正造全集』全十九巻、別巻一がある。→足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)[参考文献]
林竹二『田中正造の生涯』(『講談社現代新書』四四二)、由井正臣『田中正造』(『岩波新書』黄二七四)(由井 正臣)(国史大辞典

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 田中正造を語るには、新井奥邃(あらいおうすい)を忘れてはならないと、ぼくはある人から深く教えられました。 奥邃 については、どこかで語ることもあるかと思います。彼は明治三年だったか、森有礼の推薦で仙台藩を抜け出して渡米、以来三十年近く彼の地でキリスト者として生きた人です。今ではごく一部でしか知られていない人ですけれども、田中正造の師でもあるのです。

 明治年間、この島社会では栃木県の足尾銅山における「鉱毒事件」が進行中でしたが、殆んどは話題に上ることもなかった。もちろん、事態がどのような状況にあったか、被害者は言うまでもなく、加害者とその取り巻き連中を含めた関係者は知悉していました。この事件は、後年の「水俣事件」とほぼ同じ軌跡をたどったといってもいいほどです。「公害」という言葉のなかった時代、被害地の谷中村の住民に学び、住民と寝食を共にする中で、鉱毒事件の国家的犯罪を身をもって告発し続けたのが、田中正造でした。近代化の波をかぶるというのは、功罪半ばするというべきか、という以上に、後世に残した傷跡は百年などでは決して癒えないものだったことが、百年後に分かるのです。

 まだ国会議員であった時代には、国会開会のたびに彼は、政府に問題の真相に関して質問をし続けました。国情の穏やかならない事態は今に重なるものがありますが、たった一人の叛乱・反抗ではあったし、孤軍奮闘よく問題の的を射るに至らず、支える議員もおらず、やがて正造は議員を辞職して、谷中村の闘いの陣地に身を据えるのです。そこから、彼は人民の中に入って闘いの根本義を見出した。それ以前の明治三十三年二月、彼は「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」と、政府の不作為を激しく問うたのでした。

民を殺すは國家を殺すなり。
法を蔑にするは國家を蔑にするなり。
皆自ら國を毀つなり。
財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。

 今日の質問は、亡國に至つて居る、我日本が亡國に至つて居る、政府があると思ふと違ふのである、國があると思ふと違ふのである、國家があると思ふと違ふのである、是が政府にわからなければ則ち亡國に至つた。之を知らずに居る人、己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ是が眞の愚である。民を殺すは國家を殺すなり、法を蔑にするは國家を蔑にするなり、人が自ら國を殺すのである。財用を紊つて、民を殺して、法を亂して亡びないと云ふものは、私未だ曾て聞かないのでございます。
 自分で知つて居つて爲されるのでは無かろうと思ふ。知つて居つてすれば、是は惡人と云ふ暴虐無道である。其本人其の人間が暴虐無道である。政府と云ふものは集まつた集合體の上で知らず/\惡るい事に陷つて行く。是は政府が惡るい。此政府と云ふ集合體の上で惡るいのである乎。之を知つて居るのである乎。本人が承知して居るのである乎。承知して居て直ほすことが出來ないのである乎。是が質問の要點であります。國家が亂るからと申して、俄に亂るものでは無い、段々歴史のあるものである。
 精が盡きて御話の出來ない時に惡るうございますから、一つ簡單に、當局大臣に忘れないやうに話して置きたい事がございます。大臣は那須郡の原を開墾することを知つて居る。此の地面の惡るいのを開墾することを知つて居るならば、今ま[#「今ま」はママ]此の鑛毒地の渡良瀬川、關東一の地面の良いのが惡るくなる――此の關東一の地面を開墾すると云ふことはドンなものであつたか、頭に浮かばなければならぬと云ふことを此間話しましたが、今日は尚ほ一歩進んで御話しなければならぬ。
 己の持つて居る公園とか別莊とか持地とか云ふものは、どんな惡るい地面でも、是は大切にすることを知つて居る。大切にすることを知つて居れば、則ち慾が無いと云ふ譯では無い。國家を粗末にすると云ふ頭で無いものは、大切にすると云ふ頭を持つて居るものである。馬鹿ぢやない。其頭を持つて居りながら、那須郡と云へば則ち栃木縣の中である、其から僅か數里隔つたる所の、而かも所有者のある所の田畑が、肥沃な天産に富んで居る熟田が、數年の間に惡るくなつて行く※[#「こと」の合字、249-8]が、目に入らぬと云ふはどうしたのである。甚しきは其の被害地を歩くのである。被害地を見ないのでは無い、其の被害地の上を通行するのである。那須へは栃木茨城埼玉地方を廻つて行くのである。自分の持物は那須野ヶ原のやうな、黒土の僅か一寸位しか地層のない所も開墾して、丹青を加へて拓くと云ふことを知つて居るではないか。其れだけに善い、其れだけに力を用ゆる頭を、國家の爲に何故公けに用ひない。――他人のだから――他人の災難と云へばドウなつても構はぬと云ふ頭が、國務大臣と云ふ者にあつて堪まるもので無いのである。他の者でも然う云ふ頭はいけない、特に國務大臣にソンなことがあつて堪まるものじや無い。彼の那須野の地面と云ふものは、大抵國務大臣が持つて居る。内務大臣の西郷君を始として、政府に在る所の者、元の大臣で持たない者と云へば伊藤侯と大隈伯、其他は大抵持たない者は無い、皆な持つて居るではないか。然うすれば覺えて居りさうなものだ。自分の子供を持つて見れば、人の子の可愛いと云ふことが判らなければならぬ。六ヶしい話でも何でも無い。
 又た簡單に歴史を申上げますると、此の鑛毒の流れ始まつたのは明治十二年からです。足尾銅山に製銅の機械を据えつけたのが十二年。十三年から毒が流れたのを栃木縣知事が見付けて、十三年十四年十五年と此の鑛毒の事を八釜しく言ふと、此の藤川爲親と云ふ知事が忽ち島根縣へ放逐されたのが、政府が鑛毒に干渉した手始である、古い事でございます。此の藤川爲親と云ふ者が放り出されると、其後の知事は、最早鑛毒と云ふことは願書に書いてはならない、官吏は口に言つてはならない、鑛毒と云ふ事は言つてはならないと云ふことにしてしまつた。其れが爲に無心な人民は十年鑛毒を知らずに居たが、二十三年に至て不毛の地が出來たについて、非常に驚ひて始めて騷ぎ出した。其は明治二十三年からでございます。是から先は段々諸君の御承知の通でございますから、敢て申上ぐる必要は無い。斯樣な歴史になつて居るので、各所の鑛毒の關係及び追々惡くなつた所を一と通御話申さぬと、唯だ苦情を申すやうに御聞取になると惡るうございます。(中略)
 今日の政府――伊藤さんが出ても、大隈さんが出ても、山縣さんが出ても、まア似たり格恰の者と私は思ふ、何となれば、此人々を助ける所の人が、皆な創業の人に非ずして皆な守成の人になつてしまひ、己の財産を拵へやうと云ふ時代になつて來て居りますから、親分の技倆を伸ばすよりは己の財産を伸べやうと云ふ考になつて、親分が年を取れば子分も年を取る、どなたが出てもいかない。此先きどうするかと云へば、私にも分らない。只だ馬鹿でもいゝから眞面目になつてやつたら、此國を保つことが出來るか知らぬが、馬鹿のくせに生意氣をこいて、此國を如何するか。私の質問はこれに止まるのでございます。
 誰の國でもない、兎に角今日の役人となり、今日の國會議員となつた者の責任は重い。既往のことは姑く措いて、是よりは何卒國家の爲に誠實眞面目になつて、此國の倒れることを一日も晩からしめんことを、御願ひ申すのでございます。
 政府におきましては、是れだけ亡びて居るものを、亡びないと思つて居るのであるか。如何にも田中正造の言ふ如く亡びたと思ふて居るのであるか。(青空文庫版)

 機会あるごとに、ぼくはこの「演説」を読んできました。百年余の時日を隔てて、政治と国家というものが、政治家・官僚・産業人のトライアングルによって組織され、ひたすら国家擁護を言い募りつつ、却って「国家を冒涜」するのに腐心し、かつ自己の偽正当性を妄信していたのです。多端の苦しみに慟哭する「人民の生命」には一顧だに呉れず、自らの野心の吐け口として、あるいは自らの利得を肥やすことに汲々としているさまは、言葉を失うほどの衝撃でもあり、それでもなお、不義は不義として、不実は不実として糾弾しなければならないことを心底から感じてもいた人が存在していたという事実に、驚嘆もし、信頼に足る人物を確認する安ど感とでもいいうるわが身の、一言では言い表せない感情の激しさに震えてもいるのです。

 それは、百年余前の田中正造の身命を賭した闘いの軌跡に連なることでもあるのです。今この島の状況が、過酷状態をすでに通り越して、奈落の底に突き進もうとしているから、なおさら、田中正造を日常生活に押しとどめて置かなかった、人民の連なりの靭帯・紐帯を、ことさらに、痛感するばかりなのです。(この部分を書きながら、ぼくは二人の先輩に学恩というか、ご教示というものを忝(かたじけな)くなるほどいただいたことを強く感謝している。由井正臣、林竹二の両先生です。由井さんには近くから、林さんには遠くから、言い尽くせぬ恩恵を被りました。

 由井さん(右上写真)には親しく近づく機会を得ながら、多くの事柄を学んだと思う。先生は信州の出身で、その故郷のお話にも興味をそそられたことでした。また、「学校」「教育」の根っこに横たわる課題や願いについては、ギリシア哲学者であった林先生に、言葉にならないくらいに教えていただいた。ぼくは学者でも研究者でもありませんでしたし、今でもその通り、けっして勤勉ではないのです。何事かに関して素人の感受性と判断力を、おずおずと用いているに過ぎない、小さすぎるこころざしに翻弄されてきた人間だったと、偽りのないところを白状しておきます。したがって、福沢の「学問のすゝめ」でいう「学問」(暮らしの方法・生き方の流儀)という意味に於いて、この二人の大先輩から大いなる恩恵を被ったというばかりです。お二人はともに「帰らない旅人」になられました)

 ・朴の花猶星雲の志(川崎茅舎)            (この項は、続く)(2021/04/17)

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