わしらは、国家のない国に生まれたかったのう

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詔書。天佑を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。/ 抑々(そもそも)東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考、丕承(ひしょう)なる皇考の作述せる遠猷(えんゆう)にして、朕が拳々措かざる所。而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕(とも)にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已むを得ざるものあり。豈朕が志ならんや。

中華民国政府曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構えて東亜の平和を攪乱(こうらん)し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸いに国民政府更新するあり。帝国は之と善隣の誼(よしみ)を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃みて、兄弟尚未だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらため)ず。/ 米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱(からん)を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)へ与国を誘(いざな)い、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与え、遂に経済断行を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。

朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたずら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間却って益々経済上、軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめんとす。/ 斯(かく)の如くにして推移せんか。東亜安定に関する帝国昔年の努力は悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障碍を破砕するの外なきなり。

皇祖皇宗の神霊、上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速やかに禍根を芟除(さんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す。御名御璽。昭和16年12月8日。各国務大臣副書。(「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」)(ヘッダー写真はその一部)

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 同じ場所に長く棲みついていると、生存の証でもあるかのような出来事が累積されてきます。この劣島に人類が住みだして以来、正確には計測できそうにありませんが、少なくとも十万年ほどの時間が流れています。さらに間をおいて、本格的に集住するようになってからでも三万年は経過していると言われます。有史以前という「ことば」がよく使われてきました。それはどういうことか、「人類が文明を持って生活を始める前の時代」(精選版日本国語大辞典)と、当たり前のように説明されています。「歴史」の内容を構成するはずの時間は、いつでもどこでも同じように経過してはいるものの、それを文字で書き記すことが出来なかったので(かどうか、疑わしい。それを記述する必要がなかったからかもしれないし、歴史という言葉すら要らないかったという、生き方の選択があったのかもしれないと、ぼくには考えられもするのです)、無歴史状態だというのでしょう。それなら、今もまた、「有史以前」なのではないかと錯覚するというか、眩暈(めまい)がしてきそうなくらいに「文明」というものが「野蛮」と区別のつかない時代社会を、ぼくたちは生きているのです。

 長い歴史を経験していく中で、今ある状況の原因や理由・背景となった出来事を長く記憶に留めようとする働きが集団内でも生じてきます。その理由は何だったか。あたかも、個人の「誕生日」を記(しる)すような習慣が定着してくるのです。誕生日は「祝うもの」と相場が決まっているのか、むしろ「呪う」ような場合もあるのではないでしょうか。毎年の「記念日」は、何らかの節目だというなら、ほぼ毎日、何かしらの「記念」をしていることになります。それほど長く、この小さな劣島に人間たちが住んできたということです。別の角度から言えば、ぼくたちは、この地に棲みついてきた「有史以前」と「有史以来」の人々の「生存の痕跡」を踏み台にして、実は、それ以前とはあまり変わり映えのしない日常をやり過ごして、今を生きているとも言えるでしょう。

 ということで、毎年やってくる「12月8日」は、1941年の同日に、日本は英米に対して、勝算のありえない「戦争」を仕掛けた日となっており、それを記憶し記憶を新たにするために「真珠湾(奇襲)攻撃の日」「日米開戦記念日」とされてきました。八十年前のことでした。「開戦記念日」とはいかにもけったいな気もしますが、まちがいなく「太平洋戦争」と呼ばれるものが勃発した日です。それを「大東亜戦争」と呼ぶことに拘る人もいますが、ぼくはその立場に立ちません。しかし、立場の如何を問わず、「殺戮合戦である戦争」には無条件で反対です。「聖戦」「義戦」というまやかし(偽装)もいまなお続けられていますが、どちらにしても、ぼくは「殺し合い」には、弱々しいとはいえ、この身命を賭して反対するものです。

 例によって、まことに杜撰(ずさん)な雑文ではありますが、この島の各地の新聞の「コラム」に掲載された「真珠湾攻撃・日米開戦」に関わる記事を以下に、任意の選択で挙げてみました。それぞれの行間には、書く人も読む人も、それぞれに端倪すべからざる「背景」や「含意」こめられているはずだと思えば、心して、書く気に、読む気にさせられます。ぼくにできることは、その一つ一つの「短文」を熟読玩味すること、そこから何かが生まれてきたら、それを、ていねいにわが身にかけて吟味・熟成してゆくことです。新聞が「活字で作られている」という当たり前の事実を、ここに改めて再確認する機会でもあります。(各コラム掲載紙と担当者に、深く感謝の意を表します)

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 <卓上四季>敵基地攻撃「戦勝に酔うて長期戦に備うることを忘れてはならない」。日米開戦の翌月、そう警告したのが元日本海軍大佐の水野広徳だ。その目には連合国の勝利がすでに見えていたのだろう▼1914年の日米未来戦記「次の一戦」で水野は日米の国力、軍事力を比較。日本は緒戦で勝利するものの、フィリピン方面で艦隊が全滅し、10万の兵士が餓死か降伏の道をたどるとした。現実の太平洋戦争はその分析とほぼたがわぬ結末を迎える▼水野はこの後、欧州への私費留学を経て軍備撤廃論に傾倒していった。圧倒的経済力を前に日本の精神主義の愚に気づき、第1次世界大戦後の欧州の惨状に言葉を失ったからだ(「海軍大佐の反戦」雄山閣出版)▼水野は発売禁止の弾圧下でも日米非戦論を唱え続けた。32年の「興亡の此一戦」では泥沼の中国戦線や植民地経営の破綻、制空権を奪われた中での東京大空襲まで予測しているから驚く▼荘子は「影を畏(おそ)れ跡を悪(にく)む」と自ら苦悩をつくり心の平静を失うことをいましめたが、水野は軍備も同じだと説いた。戦争は勝者も敗者も失うものがあるという指摘は過去の話だろうか▼岸田文雄首相は必要な防衛力のため「敵基地攻撃能力の保有も含め」検討するという。真珠湾の敵基地攻撃からきょうで80年。「最も強きは敵無きにありて、敵を作ることは相対的に己を弱くする」という水野の言葉に耳を傾けたい。(北海道新聞電子版・2021/12/08)

【談話室】▼▽「帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」。1941(昭和16)年12月8日、歌人斎藤茂吉(上山市出身)は日記に書いた。言うまでもなく、旧日本軍による米ハワイの真珠湾攻撃の日である。▼▽茂吉一人の反応ではない。作家伊藤整も同じ頃、日記に「人々みな喜色ありて明るい」と記す。東京大教授の加藤陽子さんは著書「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」でこのような心理や、国力で太刀打ちできない米国との戦争に指導者層が突き進んだ背景を分析した。▼▽日本の同盟国ドイツは欧州で攻勢を強めていた。歩調を合わせる形で日本がフランス領インドシナ(現ベトナム)に進駐すると、米国は石油の対日全面禁輸という強硬策に出る。大国にこのまま締め付けられるよりはと、日本は緒戦の勝利頼みで米国との戦争に突き進んだ。▼▽開戦直後の明るさは、日本に広がった「短期決戦で何とかなる」という楽観論を映していたのだろう。しかしその4年後、茂吉は東京の自宅を空襲で焼かれ古里で疎開生活を送ることになる。一見明るい光に闇が潜むことがある。真珠湾の80年後にも通じる教訓であろうか。(山形新聞・2021/12/08)

【雷鳴抄】開戦の日の思い 12月8日は「開戦の日」。日本は1941年のきょう、アメリカ、イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が始まった。8月15日の終戦の日に比べ注目度は低いが、改めて平和について思いを巡らしたい節目の日である▼「世界で一番強い日本軍が憎き米、英をやっつける時が来た」。とちぎの空襲・戦災を語り継ぐ会の大野幹夫(おおのみきお)代表(89)は振り返る。当時9歳の小学生で、真珠湾の大勝利に胸を躍らせた▼日中戦争から太平洋戦争と常に戦雲が色濃く漂う少年期だった。戦時下、宇都宮二荒山神社前で陸軍師団の出征を熱狂の渦の中で見送った。「兵隊に憧れる典型的な軍国少年だった」と明かす▼終戦1カ月前の宇都宮空襲では、警防団活動中に父親が犠牲になったという知らせを聞いた時、「お国のためになったと誇らしかった。全然悲しくなかった」。一転、無事だったと分かった時は落胆したという▼戦争の正義がすり込まれ、少しも疑問を感じなかった。自宅が焼かれたのを目の当たりにしても「神州日本が勝つと信じていた」。多くが同じ思いだった▼終戦後、事実を学び思いは180度変わった。開戦から80年、戦後生まれが大半を占める中で、数百万人が命を失った戦争の記憶をどう残すか。「今の平和をどうしたら維持できるか、考えてほしい」。次世代への要望である。(下野新聞・2021/12/08)

 【日報抄】早朝、ラジオの臨時ニュースが旧日本軍と米英軍が戦闘状態に入ったことを告げた。80年前のきょうのこと。国内が騒然となり興奮が高まる中、さして気にもとめずに、昼ごろまで寝転がって本を読んでいたらしい。新潟市出身の無頼派作家、坂口安吾である▼床屋に行こうと外へ出て大戦争が始まったことを知るが、その後は酒を飲んでひどく酔っ払う。当時とすれば国民として誠にけしからん態度なところが安吾たるゆえんだろう。文壇も含め社会全体が戦争完遂へと突き進んだ時代である▼当時の世相は旧制長岡中学出身の作家、半藤一利さんの「坂口安吾と太平洋戦争」に詳しい。真珠湾攻撃の知らせに作家の横光利一は「先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ」と感激に震えた。評論家の亀井勝一郎は「維新以来我が祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来たのである」と奮い立った▼安吾は開戦に心を動かされつつも、こんな心境だった。「尤(もっと)も私は始めから日本の勝利など夢にも考えておらず、日本は負ける、否、亡(ほろ)びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めていたのである」▼原稿に書いたのは戦後のことだが、実際にこうした思いだったと半藤さんはみる。型破りの作家のまなざしは、戦争の先行きを冷徹に見通していた▼その眼力には到底及ばずとも、少しでも物事の奥底を察する目を持ちたい。全体が一斉に同じ方向を向くことの危うさや怖さを、この国の社会は敗戦とともに知ったはずだから。(新潟新聞・2021/12/08)

 【筆洗】「よくぞ日本男子に生まれけり」。真珠湾攻撃成功の第一報を聞いた日本海軍のある将校はこう語ったそうだ。作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあった▼八日は太平洋戦争の開戦日である。一九四一年の開戦に対し、米英の圧迫に長く苦しんだ国民は熱狂し、一種の解放感を味わったとはよく聞く。詩人の金子光晴のように開戦に腹を立て「蒲団(ふとん)をかぶってねてしまった」という人は少数だったかもしれぬ▼「よくぞ日本男子に生まれけり」。が、「よくぞ」も長くは続かない。井伏鱒二の『黒い雨』。こんな場面がある。被爆後の広島で死体を片付けながら、兵士がこうつぶやく。「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」▼戦争へと導いた国家への憤り。勝てないと分かりきった、戦争の道を国家が選び、結果、国民に塗炭の苦しみを与えた。「生まれたかったのう」。平和な時代に生まれ合わせなかったことへの恨み言だろう▼「親ガチャ」なる言葉を今年はよく聞いた。カプセル玩具と同じで親は選べない。いやな流行語だが時代もやはり選べぬ。戦争に生まれ合わせた人間は不運では片付けられない「時代ガチャ」を引かされたということか▼これから生まれてくる子どもたちに何ができるか。どのカプセルを引いても「平和」しか出てこない、そんな「時代ガチャ」をこしらえるしかあるまい。 (TOKYO Web・2021/12/08)

 【滴一滴】終戦記念日の8月15日は知っていても、米国や英国との無謀な戦争が始まった「開戦の日」を心に留める人は少ないのではないか。1941年12月8日、日本軍が仕掛けた真珠湾攻撃により、太平洋戦争が始まった▼奇襲に参加して戻らなかった5隻の特殊潜航艇の乗組員9人の名前を大本営は大々的に発表し、新聞は「九軍神」とたたえた。岡山県出身者も含まれ、本紙の前身である合同新聞には「不朽の偉勲」などと最大級の賛辞が並ぶ▼国民の戦意高揚を図るため、大本営は戦果を過大に発表する一方、都合の悪い事実はひた隠しにした。実は乗組員はもう1人いた。徳島県出身の酒巻和男さんが捕らえられ、捕虜第1号となっていた▼手記によれば、「捕虜は死すべし」との呪縛を解くきっかけとなったのは収容所で手にした現地の新聞だった。辞書を引きながら読み、米軍の局地的な敗北や政府批判の声までも伝える報道の自由さに驚き、「思慮のある日本人になろう」と決意したという▼後から収容所に入ってくる日本人に命の大切さを説き、覚えた英語で米軍とも交渉した。戦後はトヨタ自動車に入り、ブラジル現地法人の社長などを務め、81歳で生涯を終えた▼昨年復刻された酒巻さんの手記を読みながら、メディアの責任の重さをかみしめている。あす、開戦から80年を迎える。(山陽新聞・2021/12/07)

 【天風禄】「真珠湾」に始まる苦難 開業を祝う花で埋め尽くされたマーケットの古い写真がある。オーナー大谷松治郎はハワイ最大級の店構えに満足し、早朝から仕込みに余念がなかったか。それが一日のうちに暗転するとは▲18歳で山口・沖家室(おきかむろ)島から渡航し、魚の行商で身を起こした。だがホノルルの新店開店日に日本軍が真珠湾を奇襲し、大谷は靴も履かせてもらえないままFBIに連行される。根拠なきスパイの容疑。家族との面会は許されず、米本土の収容所に移された。抑留は4年にも及んだ▲きょう真珠湾攻撃から80年を迎える。広島・山口両県と関わりの深い日系移民が、日米のはざまで翻弄された記憶も呼び覚ます▲ハワイ島ヒロに「SUISAN(スイサン)」を名乗る店がある。創業者は同じ沖家室島の人で、彼はハワイ島内に収容された。社業は滞ったが、先住民たちが少しずつ鮮魚を持ち込んでくれたおかげで存続できた。創業者の子息が感謝の言葉を残していることは暗い時代の一つの救いである▲今のハワイ経済は一に観光収入、二に基地関連収入が支えているという。日系が背負った製糖業や漁業は見る影もない。リゾートだけではないハワイを知る。異郷の先人の喜びと悲しみが分かる。(中国新聞・2021/12/08)

 【明窓】日米開戦から80年 早朝の臨時ニュースに続いて、午後に戦況が伝えられると、国民の多くが狂喜したという。当時、大学生だった作家の故阿川弘之さんは、下宿でラジオを聞いて「涙がポロポロ出て来て困った」と振り返っている。この日、開会中だった島根県議会も議長の発声で万歳の後、「県民の覚悟の決議」を満場一致で採択したそうだ▼1941年12月8日、日米開戦の口火となる真珠湾攻撃当日の出来事だ。日中戦争のこう着状態が続く中、経済制裁の影響も重なり、国民の反米感情は高まっていた。2日後には当時の松江市公会堂で、日露戦争開始以来となる「必勝祈願県民大会」が開かれた▼緒戦勝利の感激は当時の作家たちも同じ。阿川さんによると、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、吉川英治、高村光太郎らも、その感激を文章や詩歌にしたという。街中には「屠(ほふ)れ米英我等の敵だ 進め一億火の玉だ」の言葉があふれた▼一方で、庶民の暮らしには既に大きな影響が出ていた。生活必需品の配給制に加え、金属製品の供出が始まり、バスの燃料も木炭や薪(まき)に。「産めよ殖やせよ」の国策に沿い島根県が、男子25歳、女子19歳の「結婚適齢者登録」を始めた、との記事も残る▼日米開戦から80年。スローガンで敵視された「米英」も「贅沢(ぜいたく)(は敵だ)」も、今では敵ではなくなった。時代の流れとはいえ、変わり身の早さに複雑な思いがする。(己)(山陰中央新報デジタル・2021/12/08)

 【水や空】開戦80年 市況は見る見るうちに活気づき、首相官邸には喜びと激励の電話が殺到したらしい。「よくやってくれた」「胸がスーッとした」…▲真珠湾攻撃の知らせが流れたとき、列島は高揚感に包まれたという。太平洋戦争の火ぶたを切って、きょうで80年になる▲1月に亡くなった作家、戦史研究家の半藤一利さんは著書「[真珠湾]の日」(文春文庫)で、日米開戦に至る道を多くの史料でたどっている。開戦ひと月前の御前会議のくだりに、ひときわ目を見張る▲政府や軍の幹部から楽観的な見通しが語られたあと、開戦に向けてこんな結論が出る。〈先になると困難を増すが、何とか見込みありと言うので、これに信頼す〉。やるなら今だ、と▲その程度の見当で戦争を始めてしまった、と半藤さんは書いている。戦争とはいわば雪の玉だろう。〈何とか見込みあり〉と最初に雪を丸めたのが軍部であっても、いったん坂を転がり出せば国民全てを巻き込み、膨らんでいく▲〈“すべてがそうなってきたのだから/仕方がない”というひとつの言葉が/遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと/もう他の雪をさそって/しかたがない、しかたがない/と、落ちてくる〉(石垣りん「雪崩のとき」)。雪の玉を作らせない、雪崩を起こさない。そんな不戦の誓いをかみしめる日にしたい。(徹)(長崎新聞・2021/12/08)

 【南風録】ハワイ・真珠湾の攻撃に参戦した元日本海軍飛行兵は、1941年の8月ごろから鹿児島湾で魚雷攻撃の訓練を繰り返したと証言している。鹿児島湾の地形が真珠湾と似ていたからだ。▼出水市の出水基地を飛び立つ。天文館上空をすれすれに飛び、湾に浮かしたブイを敵の船に見立てたという。「後で考えてみたら、それはもう真珠湾の攻撃の仕方であった」と振り返る。▼太平洋戦争の戦端を開いた真珠湾攻撃からきょうで80年である。日本軍の奇襲で多数の艦船が大破し、米側の約2400人が死亡したとされる。日本はそこから多くの犠牲を伴う泥沼の戦争に入っていった。▼当然だが、開戦の日は突然訪れたわけではない。「その日」を想定した訓練は、4カ月も前から鹿児島で行われていた。もっとさかのぼれば、満州事変から日中戦争を経て徐々に、軍部が力を持つ社会へ変わっていった。▼半藤一利、加藤陽子、保阪正康3氏の鼎談(ていだん)をまとめた「太平洋戦争への道1931-1941」は、歴史をたどりながら、無謀な戦争へと歩む日本の姿を浮き彫りにする。引き返す機会を逃したのは、リーダーが不勉強で冷静な判断ができなかったからと、半藤氏は断じる。▼<戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉>。日常に潜む変化に気付き、引き返す知恵を私たちは身に付けられただろうか。過去に学び、未来を考える大切さを思う。( 南日本新聞・2021/12/08)

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 Introduction  Every living thing has a birthday. That day will definitely come every year. This “birthday” will continue to be remembered until its existence disappears. The powers of this state thought that the nation also had a birthday. For that purpose, they made a birthday called “National Foundation Day”. I don’t think that a state was born at a particular date and time. Since the history of this country is old, it is not possible to specify when the country was born, but if the “defeat” is the day of “death and life” of this state, it is August 15, 1945. “Postwar” has made the history of Japan’s rebirth, so its “beginning” was December 8, 1941.

 However, on December 8th, the situation did not come suddenly, but the situation continued before that. The “Manchurian Incident” prepared the “War against the United States and Britain.” Then why did the Manchurian Incident happen? ・・・ Thinking this way, there is always a reason before things can happen now. To learn “history” is to carefully look at various incidents and events that occur in the flow of time. Why do I learn “history” in that way? The reason is quite clear. This is to avoid making the same mistakes again. Learn the history and become wise to do so. (Satoshi Yamano)

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 なんとも不細工な進み具合です。ご寛容のほどをお願いします。ぼくは毎日のように、各地域の新聞のコラムに目を通します。大きな事件や事故、あるいは慶賀すべき出来事などがあると、同一の問題に就いて、各紙各様の見方捉え方で記事(コラム)にされます。その内容からは言うまでもなく、いろいろな面で、特に文章表現や言葉遣いなどにおいても、怠け者にはとても教えられるところがあります。別に「優劣比べ」をするつもりはないのですが、長年愛読していると、各紙の癖というか性格・傾向というものが想定されてきます。同じ問題だけに、切り口や表現法など、ぼくのような不勉強な人間でも学んでいるつもりになるのですから、可笑しいですね。当然ですが、これを書かれる記者のご苦心も、ぼくなりに、少しばかりは分かりますから、それぞれの「コラム」を尊重したいという礼儀は失わないようにしているつもりです。

 昨日(ぼくの混濁した意識では「本日」)、「真珠湾攻撃の日」から八十年目というので、たくさんの新聞コラムが、この問題に触れていました。もちろん、触れなければならぬというものでもないので、普段通りに「生活の一面」を切り取っているコラムもありました。繰り返すようですが、誰彼の優劣を言うのではない。ここに十本の「コラム」を羅列(並べさせていただく)しました。ぼくが興味をもって読んだのは、そこにひょっこり顔を出している、有名無名を問わない「個人」の、「開戦」「戦争」への思い思いです。おそらく、それは個人の感想や気分であると同時に、それぞれはいくらかの「右代表」という意味合いを帯びてもいるでしょう。各コラムが連絡を取り合って書かれているとは思われませんから、まことに玄妙な人選(登場人物)ではあると、感服します。そして、「この人なら、やはりね」という気もしますし、「えっこんなことを、彼が」という御仁もおられます。ぼくは、戦後の活動なら、ほとんどの人(一部の人は存じあげていません)を、それなりに読んだり学んだりしましたので、複雑な感慨があります。舞い上がるんですね、老いも若きも、重いも軽いも。誰がどんな言動を開戦時に取ったか、若い頃にも学んだのですが、その受け取る印象は、実に異なってしまいました。歳をとるという意味は、いいことではないんですね。

 何時でも、「その時、自分が現場にいたら」という態度を慮る癖がついています。「自分だったら」「自分でも、やはり」という思いが断ち切れないのですね。

 率直な感想を言えば、多くの文学者たちは「舞い上がっているな」という言葉しか浮かびませんでした。どうしてですかね。まるで「挙国一致」「一億一心」という言葉通りに、ありもしない空想の状況に舞い上がり、踊り狂っているとしか思われません。奇妙でもあり、なんだそんな人間だったのかよ、という心底からの「軽侮の念」が湧き出てくる思いをしたりします。反対に「黒い雨」の兵士のつぶやき、「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」(太字は筆者による)には胸を打たれました。なぜだったか。「(一銭五厘の)召集令状」で呼び出され、敵国兵士や民間人を殺すために、それから、ついには死地に赴く、これが「国民の義務」だと言ったのです。勝手なものですね、国家という機関は。人間に対する「敬い」というものを毛ほども持ち合わせていないのですから。

 戦争を始めるのも、人民を呼び出す(召集)のも国家です。どんな権限があってのことか、じゅうぶんには説明がつかないことで、まさに「理不尽」というほかない暴挙を、国家の名において科し、しかも平然としているのです。その体質は、平時でも全く変わらない。横光利一の「先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ」という狂信徒そのものの異常な言、利一さん、これを本当に、そのように叫んだんですかと疑いたくなりもし、新感覚派の旗手と任じていたのが、この程度ですかという「後味の悪さ」を噛み潰しかねます。まさか、計算ずくで発言したとは、微塵も思いませんが。(もちろん、これは「後生(後から生まれた者・こうせい)」の勝手な放言です。しかし、「巨人の肩に乗る小人」という表現もありますから、気ままに理解して言うと、その分だけ過去と未来に対する見通しが立つということもできます。ならば、この先行(先達)者たちは、誰の肩の上に乗っていたのだろうという疑問が消えない。ぼくに切実なのは、「ほたえるなかれ」、「舞い上がるな」「地に足をつけろ」という、その一点です。

 贅沢な風景ですね。同じテーマに関わるコラム、それもプロが書いた「十本」を横に並べて読んでみると、何かと感慨が湧きます。「この人なら、やはりね」「こんな連中だったのか、いい気になって持て囃(はや)されていたんだな」という合点のいく「文化(という野蛮)人」たちの言動が顔をのぞかせている、そのようにぼくはあえて言いたい。広島の兵士(小説の人物)と高名な文学者の比較は意味をなしませんけれども、異様な状況下にあって、まずどこに目をつけるか、それをどう受け止めるかという根本の姿勢、身の置き方が問われると言うことを考えます。「舞い上がる」というのは、いったいどのような感情から生まれるのでしょうか。あるいは「興奮」と言ってもいい。周りが舞い上がっているから、誰もが興奮しているから、自分も「同調しなければ」とか、自分だけは「取り残されたくない」ということなのでしょうか。それだと、たんなる「付和雷同」「群衆心理」でしかないですね。そこでは判断力も自制心も、なすところを知らないのです。要するに、多くの人々は、時には「烏合の衆」という本性を露出するということなんですかね。これは生まれも育ちも、あるいは学歴の高い低いも、あまり関係しないようでもあり、いや、そうではないようだぞと言いたくなる場合もある。

 (*烏合の衆=「後漢書」耿弇伝から》規律も統一もなく寄り集まった群衆。)(デジタル大辞泉)だが、そんな中にあって、けっして「舞い上がる」ことをしなかった軍人も、小数とはいえ、いたということを、ぼくたちは記憶にとどめていたい。例えわずかであれ、総力戦体制に従うことを肯んじなかった、職業軍人の存在は、暗黒の歴史における、ほんの一瞬にせよ、微かに閃いた光明でもあったからです。しかも、どんな時でも「真理は小数意見にあり」という経験の教えが、ぼくには身にしみて感じられるのです。群集心理や集団興奮が「戦争を支持」していたというのは、冗談ですか、それとも笑い話ですか。

〈“すべてがそうなってきたのだから/仕方がない”というひとつの言葉が/遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと/もう他の雪をさそって/しかたがない、しかたがない/と、落ちてくる〉(石垣りん「雪崩のとき」

  雪崩のとき

 人は
 その時が来たのだ、という

 雪崩がおこるのは
 雪崩の季節がきたため、と。

 武装を捨てた頃の
 あの永世(えいせい)の誓いや心の平静
 世界の国々の権力や争いをそとにした
 つつましい民族の冬ごもりは
 色々な不自由があっても
 またよいものであった。

 平和
 永遠の平和
 平和一色の銀世界
 そうだ、平和という言葉が
 この狭くなった日本の国土に
 粉雪のように舞い
 どっさり降り積もっていた。

 私は破れた靴下を繕(つくろ)い
 編物などしながら時々手を休め
 外を眺めたものだ
 そして ほっ、とする
 ここにはもう爆弾の炸裂(さくれつ)も火の色もない
 世界の覇(は)を競う国に住むより
 このほうが私の生きかたに合っている
 と考えたりした。

 それも過ぎてみれば束の間で
 まだととのえた焚木(たきぎ)もきれぬまに
 人はざわめき出し
 その時が来た、という
 季節にはさからえないのだ、と。

 雪はとうに降りやんでしまった、
 降り積もった雪の下には
 もうちいさく 野心や、いつわりや
 欲望の芽がかくされていて
 “すべてがそうなってきたのだから
 仕方がない” というひとつの言葉が
 遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと
 もう他の雪をさそって
 しかたがない、しかたがない
 しかたがない
 と、落ちてくる。
 
 ああ あの雪崩、
 あの言葉の
 だんだん勢(いきお)いづき
 次第に拡がってくるのが
 それが近づいてくるのが

 私にはきこえる
 私にはきこえる。
    (1951年1月)

 繰り返し繰り返し、りんさんの「雪崩(なだれ)のとき」を読んでみる。この時代、りんさんは三十を超えたばかりでした。高等小学校卒だったと記憶しています。一家を支えるために、東京駅前にあった銀行に雇われ、安い給料で懸命に働いた。もちろん、彼女も「雪崩のとき」を経験していた。その実体験を、しかし、りんさんは「美化」も「特別視」も「民族の誉」にもしなかった。ありのままに、率直に、それはまるで「表札」で静かに、でも、毅然として表明した姿勢・態度と寸分も異ならない。おかしいことはおかしい、まちがいはまちいであると、当たり前のことを突き出しただけでした。それは、しかし、時と場合には死に瀕するような「奇特」な行動でもありました。「自分の住む所には / 自分の手で表札をかけるに限る。 精神の在り場所も / ハタから表札をかけられてはならない  石垣りん / それでよい。」という潔さ。浮れて歌い踊り、「全体」に流されて舞い上がるまい、舞い上がってたまるかという覚悟、です。

 それは平時だったから、というなかれ、文学は「平時のもの」で、興奮は「戦時に限る」というものではないでしょう。平時には洒落た、請けのいいことを言っていると、非常時には「舞い上がる」とは限りません。それでは、「舞い上がらない」で生きていけるという保証はどこにあるのか。それが分かれば苦労はしないというのでしょうが、「戦争」が自分にとって、彼や彼女(敵味方を含めて)にとって、どんなものかという、腹の底の底に、それに対する覚悟を持っていなければならないでしょう。それは平時においてこそ鍛えられるものです。 

 十分に知られていないかも知れない俳人・渡邊白泉(1913-1969)の句を二つばかり。 彼は学校の教師をしていました。 

・銃後といふ不思議な町を丘で見た  ・玉音を理解せし者前に出よ     

HHHHHHHHHHHHHHHHHH

 まず「旗を振らない」、「旗のもとに駆けよらない」、「旗になった言葉(「天皇陛下の御為に」「英霊となって、靖国で逢おう」などという)」に身を掬われない、また、敵国を呪い、わが陣営を鼓吹する、そんな催眠術のような「歌」は歌わない(「勝ってくるぞと勇ましく」というような)。「お前はそれでも、日本人(国民)か」と問われれば、低い声で、「そうかもしれない」、あるいは「そうでなかもしれない」と、しかし、はっきりとぼくはいうつもりで生きてきた。これは覚悟でも得心でもない、平時の心がけを怠らないだけのこと。

 「維新以来我が祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来たのである」(亀井勝井一郎 ➡)などと、思ってもみないことを、不注意かつ軽率に(だったと思う)漏らさないこと。転校だか転向だか知らないが、後で「臍(ほぞ)を噛む」ことになる、軽薄な挙動は断じてしない、誰かの提灯を持つような虚言は吐くべきじゃない、その心つもりを忘れたくないと、つくづく思うのです。「あの時は仕方なかったんだ」と、利口な奴なら、小利口に弁解する、それを唾棄すべきものとして、ぼくは拒絶してきたという思いもあるし、反面では、それすら出来なかったのだという、悔いも残っています。その落ち着かない、不安な感覚を忘れたくない。平時に「戦争」があり、戦時に「平常」がある、それをいつも見逃さないように生きていたい。(2021/12/09)

第2次世界大戦の開戦を発表する大本営陸軍報道部=1941年12月(共同)(出所は、https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00735/)

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