「言わねばならぬ」義務の履行

(↑ 東京新聞、2019/9/8)
「他山の石はあらきが故に、よく玉をみがくといへり。君子の徳を大にするものは小人也」(『集義和書』)

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 九月一日。九十七年前のこの日、関東大震災が発生しました。午前十一時五十八分。マグニチュード7.9。首都と横浜が甚大な被害を受けた。さらに九年前の三月十一日にはそれを上回るマグニチュード9.0、最大震度7の大地震と、稀有な大きさの津波が東日本(特に東北地方)を襲来しました。いまなおその影響を被り続けています。原子炉の破壊の後始末は終息する道筋さえ見通せないままに今に至っております、つまりは破滅への道をひたすら進んでいるのです。自然災害がときに「人災」を伴って想像を絶する大被害をもたらしてきました。劣島は「災害・被災劣島」でもあります。

 首都直下型地震や東海地震の可能性(危険性・蓋然性)が指摘されていますが、それに対する目立った対策は絶えて見られない。それどころか、年中行事の如くに、各地を襲う局地的豪雨や台風に備える方向性(方針)すらほとんど改善されていないのが現状です。災害は自然発生するが、その被害をどれだけ減少させられるか、いつにかかって政治や行政の見通しと実行力によるものですが、これに関してはお先真っ暗、目先の利害に狂奔しているさまを見せつけられるにつけて、わが身は自身で守るほかないという覚悟が求められているのです。現下のコロナ禍でも、事態は変わりません。見知らぬどなたかに、わが命あずけます、は危険極まりない、あるいは無謀というほかない蛮行に当たります。よそうじゃありませんか。

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 さてどうするか、当方に妙案があるのではありませんし、これまでと変わる何かが打ち出せそうにない。いやこれまで以上に、というのはよろしくありません。拙いながらも、これまでの姿勢・態度を持続するまでです。朝は早起き、夜は早寝。食事は栄養失調にならず、また死なない程度に。世間にはあまり身をさらさない。世間の風にも、できるかぎりは曝されたくない。例えば、以下のような「先人の顰」に倣うが如しです。元来は、誰もがこのようであったんですがね。

 有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、
「日出而作、日入而息。鑿井而飲、耕田食。帝力何有於我哉。」(日の出とともに仕事を始め 日没には休む。井戸を掘って水を飲み 田を耕して食う。帝力が自分に何の関係があるかね。) 

 あるいは、ブラウニングの教えに学びたい。要は肩も肘も張らないように、です。

「すべて世は事も無し」(上田敏訳詩)

 

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 駄文と雑文を、およそ半年連ねてきました。マイペース(我流)でしたが、内容は浅薄信仰会でした。要は「自主トレ」(リハビリではありません)が主眼で、頭の中身・細胞(思考力や記憶力)の衰退がはなはだ怪しいと自覚が働いていますので、無理をせずに、また目標設定などはせずに好きなようにトレーニングを重ねてきた次第です。効果はあったか、まったく「効なし」というのも残酷な話ですが、まあ大して改善したようには思われません。理由ははっきりしています。修復が難しい程度に、脳内破壊が進んでいること、さらに、生来の根性がまっすぐでないために、あたら突っ張っては、空回りをしてしまったこと、それがためにあまり美しい振舞いにはならなかったこと、それが主たる理由でした。

 「帝力、我になんかあるんだ」とかってに錯覚し、妙に噛みついたり後悔したり。「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」という義侠心のようなものが、まだまだ強いなあと、再発見しながら、我ながら驚いているのです。「蝸牛(かたつむり)」や「雲雀(ひばり)」に無関心で、「神が天におられます」とは微塵も思わない傲慢さ。それでは「すべて世は事も無し」であるはずがないじゃないか、と、あるいは悟り・分かりかけてきたのですかな。そう願いたい。世間が離れてくれない、と言いたい気もするのは、まだまだ年貢を納めきっていない証拠ですね。

 「言いたいこと(what Iwant to say)」ではなく、「言わねばならぬこと(what I have to say)」を小さな声で、誰に気づかれることもなく呟く、とまあ当初の趣をとりもどしたような気配です。あくまでも「自主トレ」であり「自主研鑽」にでもなればという思い。症状の悪化を少しでも遅滞させるという情けない運動方針です。新薬は使わない。そう、漢方か本草で、じんわりと、効くともなしに効いてくれれば勿怪の幸い。果たしてこのぼくにも、「言わねばならぬこと」があるのかどうか。あろうことなら、「それは無い」となると嬉しい限りですが。あるなら、キチンと言い放ちます。

 山中住まいの中、昨夏から、近所で遊んでいた猫たちが、拙宅を根城にし、なんと今は「六人」になりました。「六人の侍猫」。(屋根付き駐車場も占拠されている、軒下を貸して母屋を取られそうなので、かみさんは予防線をさかんに張っています)春生まれが一人、夏生まれが二人、今のところ元気で、(親を含めた)大人たちと仲良くしているようです。(生まれて間もない子猫が計四人、あれやこれやの理由で早逝しました。可哀そうなことをしました。無事に育つのは、ここでも奇跡です)

 この食事係を仰せつかっている。朝は五時から(ラジオ体操より早い)、夕日が沈んでもつきあっています。酷熱の中、鶯は姿も声も消しました。これで、はたして「帝力何有於我哉」となり、「すべて世は事も無し」となりますか。(でも、ぼくにとっては、深刻であり、また面白くない(つらくなりそうな)ことは継続中です)それもこれも含めて、「すべて事も無し」と生きたい。今ここで、「言わねばならぬこと」をわずかばかり言ってみようとしています。「なに、年寄りの冷や水(indiscretion)さ」、と叫ぶ声あり。「フ、フ、フ」(2020/08/31)

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●他山の石=もともとは中国の古典詩経』からのことばで、よその山から出た粗悪な石も、自分の玉磨くのに利用できるという意味であり、そこから、他人のつまらない言行も、自分の人格を作るための反省材料とすることができるという比喩に用いられる。よって「他山の石」自体は、他人のよくない言行のことをいうのであり、人格形成のためのよい目標といった意味でこれを使うことはできない。基本的には悪口なのである。(とっさの日本語便利帳の解説)

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