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寺名のもととなっている二尊は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遺の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遺迎二尊です。この思想は、中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白道喩」というたとえによるもので、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれました。当院の遺迎二尊像は鎌倉時代中頃に、春日仏師によって作られたと言われております。本堂の中央に安置されており、右に釈迦如来像、左に阿弥陀如来像が立ちます。左右相称で金泥塗り、玉眼入りの像が境内を見守るように並んでいます。(http://nisonin.jp/about)

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小学校時代だったか、嵯峨小学校の北側にある小倉山を歩いていたら、大きな門に遭遇した。「二尊院」とあった。「二尊」というのはなんのことかわからなままに、境内に入ってゆくとお墓がたくさん並んでいた。なかに「伊藤仁斎」「伊藤東涯」という二つの墓が並んでいた。何者であるか、あたりまえだが、まったく知らない。人がおらず、森閑としていたのをよく覚えている。
うんと年を取ってから(四十過ぎ)、仁斎を読もうとは夢にも思わなかった。『童子問』『論語古義』などを読み、街中の堀川の塾「古義堂」跡にも出かけた。そのかかわりで徂徠をまじめに読んだことも今では懐かしい。『弁道』『弁明』『論語徴』などなど。いくつかの文章を諳んじているほど、熱心に読んだ痕跡が残っている。それがどうしたといわれそうだが、それだけの話。
二尊院から嵐山までは一歩だし、それと反対の道をたどれば清滝に出る。ここには同級生の親が旅館を経営していた。今でもあるかどうか。というほどに、ぼくにとっては京都西山一帯は散歩道、いや徘徊道となっていたのである。(今に及んで徘徊癖は抜けきっていない)西行もこのあたりをよく徘徊していたらしい。本名は佐藤義清(1118-1190)。出家して西山あたりに住むつもりの西行だった。

抹香臭いという感じを、ぼくは当時ももっていたし、いまでもある。なんで京都のこのあたりには寺や墓所が多いのか、御所の主がおられたころから、このあたりは辺境であった証拠。同級生にも坊さんの子がたくさんいたし、教師にもいた。釈迦堂などはぼくの写生寺だったが、その娘も同級生で、親は教師。だからといって、信心はまったく育たなかった。これはぼくの悪心(あくしん)のゆえだったろう。
我がものと 秋の梢を思うかな 小倉の里に 家居せしより(西行)(20/07/12)
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