なんなんなのはな匂う道

 いすみ鉄道にはほんの数回乗っただけです。でかけるのは車で、がほとんどでした。拙宅からは一時間ほど走ります。大原は、港町でもあり、また山側には、房総のいくつかの観光スポットがあるようです。ぼくは観光地と聞くだけで、逃走本能が働きますし、混雑とくると、バスでも電車でも人が並んでいるのを見るだけで、もう駄目です。列を見た途端に歩き出すという手合いです。待つのも並ぶのもまったく嫌いです。そのために損をしたこともなければ、もちろん得をしたこともない。気が短いというばかりの男としてここまで生きてきました。だからこそ、山中や田圃道を自足三十キロで走る(いや転がるというべきか)電車がいいんですね。ただ乗っているだけで、頭が空っぽになる。こんな機会はめったにないことです。例えていえば、千葉の田舎からわざわざ大船あたりに出かけて「湘南モノレール」に乗るような、あるいは鎌倉の「江ノ電」の客になるみたいな風情があるのです。酔狂ですね。(「なのはな電車」いすみ鉄道・「ビュー旅編集部」https://www.viewtabi.jp/tips/19030501 ⇑)

 半世紀ほど前に出かけた大原や隣町の御宿(➡)は瞼の影に、ひっそりと映じてるのかどうか怪しいくらいの暗影です。御宿は近年でも何回も出かけました。「月の砂漠」の発祥の地というので、海べりの砂浜に、驚愕すべきグロテスクそのものの(醜悪を画に描いたような)「駱駝に乗った王女・王子」のコンクリート像が君臨しているのです。なんという心ない業を、観光目当てとはいえ、はたせるものかなと、行くたびに慨嘆するほかありません。(⇓ 左下)

 今の時期、このなのはな鉄道沿線は、一年の中でももっともいい季節というのでしょう。菜の花と同時に桜が咲き乱れます。しかし、偏屈物のぼくは、どんなものでも乱れるのは好きではありません。若いころから、奈良の吉野に何度も誘われましたが、行かなかった。「吉野千本桜」ときいただけで胸がいっぱいになります。あの桜が千本も、それを想像しただけで困惑しきりです。あるいは、吐きそうに。油揚げを天ぷらにしたものに、たっぷりとソースをかけた大盛飯を食わされるようで、とても食欲がわかないのです。「日劇ラインダンス嬢」が千人で美脚を上げ下げしていたら、ぼくは劇場には絶対に行かなかったでしょう。酒でも何でも一人だけがいい。「一人静か」がいいな。桜も同じで、ひっそりと、アッという間に咲いて散る、いいなあ、「三日見ぬ間のサクラかな」とうっとりしている間に、でも、ぼくはすっかり爺さんになりました。うかうかと年を取ってしまったというのが、紛うことなき現実でした。

 小湊鉄道の沿線にある大多喜という地も、この両鉄道からは指し呼の間ですが、ここにも見事な桜が幾本もあります。由緒あるお城のようで、近年債権というか、新築されたばかりです。その傍まで行きました。これも瞼の母ならぬ、瞼の桜です。もう一度見てみたいという気もしますが、止めておこう、幻滅するばかりだろうからという、律義な桜好きの嗜みも、ぼくにはあるのです。大多喜はまた、「筍」の名産地で、今が旬だねと、イノシシが喜んでいるはずです。特に「白筍」は貴重な逸品だそうです(右下写真)。この季節、遠方からも「道の駅」に押しかけて、筍を洗うような賑わいです。なんでも旬は値が高いといいますが、十センチかそこらの小さいものが二千円もします。拙宅にも竹藪が、狭いのですが、あります。相当成長してから取っても、じゅうぶんに柔らかいですね。整理をするために、大ぶりの竹を切ることもありますが、その際は、いつでも「かぐや姫」が出てくるんじゃないかと、ドキドキします。ぼくは年に何日かは、竹取の翁になります。また別の碑には、草刈マサオ君になります。(上総大久保駅~養老渓谷間は小湊鉄道で一番の菜の花畑スポット(⇑))

 小湊鉄道にも、数えるほども乗車していません。この沿線には何度も出かけましたが、ほとんどが車でした。始発駅の五井は市原市にあり、そこへはしょっちゅう出かけています。かみさんが手術したり入院したり通院したりしている病院がこの地にあるからですが、観光名所も豊富だそうです。終点近くには大多喜城があって、かの馬琴の「南総里見八犬伝」の主役たる里見氏にかかわる城でもあります。彼が完成させるまでに三十年近くもかけた作品で、里見氏の復活物語。いかにも勧善懲悪を額に入れたような物語です。

○ 南総里見八犬伝=読本。九輯九八巻一〇六冊。曲亭馬琴作。文化一〇年(一八一三)起稿。天保一二年(一八四一)完成。文化一一~天保一三年刊。室町時代の下総国の豪族里見家の興亡を背景に、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の球を持った義兄弟の八犬士が活躍する長編伝奇小説。勧善懲悪が基調となっているが、人情描写も綿密であり、雄大複雑な筋が少しの破綻もなく統合され、作者の思想と学識が盛り込まれ、間接的な幕政批判も述べられている。全体の構想を「水滸伝」に借り、文体は雅俗折衷の華麗な和漢混交文。里見八犬伝。八犬伝。(精選版日本国語大辞典)

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 菜の花の季節が来ましたと、まるで蝶々のように、ぼくは喜んでいるのですが、ふと我に返ると、喜んでばかりもおれないぞという気になり、糠のような元気が萎れるのを感じます。きっと、この島社会はどこかの組と抗争をしたわけではないし、あからさまな内乱が生じていたのでもないのに、まるで自壊作用を起こしているような事態が深く静かに進行していた。人も物も、すべてに崩壊の兆しが見えたり、放火してしまったものまで出る始末です。明治百五十年、いろいろな意味で、これまでの通念や価値観が壊れてしまい、それに代わる新たな生の道筋が杳として見渡せないという、まことに悍(おぞ)ましい事態に目下突き進んでいるのです。

 それに気づいて、ぼくは暗澹たる気持ちにさせられているのです。他国と戦争するのはもちろん認められませんが、あちらこちらに白アリ、ハゲタカが棲息していて、長年にわたって、この島の屋台骨を齧り切り、腐敗させ切ったというのです。やがて、明らかになるのかどうか、ぼくには判然とはしませんが、戦後最大のというべきか、とにかく超ド級の「疑獄事件」が総務省を舞台に何年にもわたって惹き起こされていたのです。その事件の渦中にある輩が、この百五十年の遺産を食いつぶしたという自覚もなく、時代はさらに遠くに去ろうとしているにもかかわらず、旧態依然の政治ゲームや、経済復興の悪夢を追いかけているのです。度し難い連中であると非難したいのに、そんな屑どもを支持してきた、我ら人民も、共犯を免れないようです。敗戦直後に経験した、あの粒々辛苦を記憶の淵から救い出し、さらにもう一度、老いも若きも挙って、深い水底に堕ちるべきだというのかもしれません。

 与野党議員を巻き込んだ接待は怪しからん、いや羨ましい、ドコモではなく、ドコモダケの携帯料金がうんと安くなる、それじゃ勝負にならんと、他社には、国の助けは期待できぬと、政官業の八百長を非難するし、JPやテンセントにすがるぞ、楽天モバイルは、と起業家の旗手は白旗を挙げる始末。どの会社の放送免許がどうだこうだと言っておいて、無駄な時間や税金を使っている間隙を縫い、人民がだまし討ちに合っている間に、この島社会は一気呵成に腐敗が進んで沈没し始めている。コロナも五輪も、すべては、「疑獄」隠し、あるいは「臭いものに蓋」だった。「たたき上げ」標榜内閣総理大臣の壮大な利権漁りの野望遂行の舞台回しだったのです。永田町と霞が関と大手町や日本橋界隈(業界)が、それぞれになけなしの「利権」を貪っていたんですね。沈没を運命づけられている、(実は小さな)巨(虚)大戦艦「大和」に、定員の数倍する亡者が乗船して、この世の春を謳歌している図です。

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 菜の花からの連想で、「朧月夜」についで、この「仲よし小道」が浮かびました。ぼくにも隣のみよちゃんならぬ「ヨーコちゃん」がいました。小学校から高校まで、いつもいっしょだった。いま彼女は、ぼくと同い年ですから、古希をはるかに過ぎています。京都の同級生の話によると、彼女は京都西院だか壬生だかの「分限者」と結婚し、豪勢な暮らしをしているとか。しかしある持病に苦しめられているということでした。数年前に帰京した折、彼女と電話をしました。悪友の仲介でした。「近々、逢おうね」と言ったきりになっています。ほんの数分でしたが、「いつも学校へ ヨーコちゃんと」と口ずさむ一瞬の間に、七十年が消えたんです。「なんなんなの花 匂う道」を通ったのも昨日のよう。「お話しするのよ 楽しいな」と、無駄話に夢中になったことも何度だったか。やがて、日が暮れ暗くなり、親の呼ぶ声で「さよならさよなら また明日 お手手をふりふり さようなら」という声が今も耳に届いています。一別以来、六十年の星霜がかさなった。いまも、ヨーコちゃんは健在だろうか。

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 余談ですが、(これはどこかで触れたと思う)この唱歌(「かもめの…」)は、昭和十四年に歌詞が作られました。作曲の河村光陽さんは早くに亡くなりましたが、お嬢さんが童謡歌手として一世を風靡された。川田姉妹のように、妹さんだったかといっしょに活躍されたと記憶しています、あるいは勘違いかも。もう何年前になるか、かみさんの大学の同級生(声楽家でもあった)が園長をしていた幼稚園に呼ばれて、先生方に向けて雑談をした折に、その河村順子さんが同席されて、しばし歓談したことがありました。過ぎてしまえば、百年も千年も、一瞬の早さです。歳月は人を待たずといいますし、「光陰矢の如し」とも言われますが、過去というのは、まるで玉手箱のようなもので、一瞬魔がさし、常になく懐古の情に誘われて、ふたを開けてみれば「中からぱっと白煙」です。

歌:童謡・唱歌
 作詞:不詳
 作曲:不詳

昔昔(むかしむかし)、浦島は
助けた亀(かめ)に連れられて、
龍宮城(りゅうぐうじょう)へ来て見れば、
絵にもかけない美しさ。

乙姫様(おとひめさま)の御馳走(ごちそう)に、
鯛(たい)や比目魚(ひらめ)の舞踊(まいおどり)、
ただ珍(めずら)しくおもしろく、
月日のたつのも夢の中(うち)。

遊(あそび)にあきて気がついて、
お暇乞(いとまごい)もそこそこに、
帰る途中(とちゅう)の楽しみは、
土産(みやげ)に貰(もら)った玉手箱(たまてばこ)。

帰って見れば、こは如何(いか)に、
元(もと)居た家も村も無く、
路(みち)に行きあう人々は、
顔も知らない者ばかり。

心細(こころぼそ)さに蓋(ふた)とれば、
あけて悔(くや)しき玉手箱、
中からぱっと白煙(しろけむり)、
たちまち太郎はお爺(じい)さん。

 順子さんの父上は「カモメの水兵さん」の作曲者でもありました。河村光陽さんは、他に「グッドバイ」「うれしいひなまつり」「赤い帽子白い帽子」など多くの曲を残されました。また「ハワイ撃滅の歌」なども作られています。戦争への翼賛、国威発揚という加担の生き方は避けられない道でしたでしょうか。ぼくは童謡が大好きなのですが、作詞家や作曲家の他の面(戦意高揚もの)をなまじ知っているだけに、何かとても複雑な気分が消えないのも事実です。くだんの園長先生の父上は平岡照章さんで、「小鹿のバンビ」などの作曲家でした。ぼくは唱歌や童謡好きになった一因につながるような逸話です。いっしょによく飲んだ、その園長さんは、はるかの昔に他界されました。

 唱歌や童謡に詠われた世界は、もはや歴史からは消え去ったものでした。この島のある時期の豊かな四季や人情の機微を捨て去りがたいものとして刻印していました。だからぼくがいたずらに童謡や唱歌に心惹かれるのは、今はない故郷の息づかいであり、ひとごころ(故旧の人の呼吸)でもあったと記憶しているからです。それは、ぼくにとっては郷愁でもあり、旅情でもあるのです。(今は触れませんが、「人と作品」という主題は、また芸術や文芸とは別個の難問を提示しているのです)

 あまりにも暗く楽しくない話題が、思わず出てしまいました。それをここでいうか、と言われそうですが、仕方ありません。どこかで、いささかでもカタルシス経験をしておかなければ、この先思いやられますから。楽しさ一辺倒とばかりに学校唱歌や一世を風靡した童謡を声高らかに歌った時代を思うにつけ、その裏には幾多の暗い、あるいは陰湿な時間もまた流れていたのだと、この島社会の「近代史」が恨めしく思い起こされます。それにつけても、学校は暗い過去を隠蔽し、そんな過去はこの島には端から存在してはいないという「出鱈目」を権力の傘に隠れて、かぎりをつくして徹底していたんですね。いまさらのように、わが少年時代の学校教育の「非人間化」過程を恨めしくも、思い出しています。(上は大原海岸)

 雑用が出来たので中断しようとした瞬間に、どうしたことか、本日が四十八回目の結婚記念日だということに気がつきました。どうして、こんな埒もないことを思い出したのでしょうか。まるで老いの坂を転げ落ちるように、止まることがない老衰の気配です。一人の相方と半世紀に及ぶ時を過ごそうとは想像だにしませんでした。ぼくの場合は、気が付いたら、こんなに時間が過ぎていた、まるで浦島太郎のような心境です。かみさんはどうなのか、聞くのが怖いので止めておきます。

 この交わりが「花も嵐も踏み越えて」だったかどうか、今では記憶の彼方に多くが消え去りましたが、彼女との付き合いはまだ続いています。いつまでたっても「人間はわからない」という現実にせき止められ、そして突き動かされているのです。これだけの長さを共にしたのだから、もう少し「わかる程度」が深くなってもいいのでしょうに、そうならないのはなぜか。どちらかに、あるいは両者に欠けたところがあるのは間違いないという自覚はあります。でも、それを埋めるだけの思いやりがたがいに失われてしまったというほかありません。

 「恋は不思議ね 消えたはずの灰の中から 何故に燃える…」「あなたのために 命さえも 捨ててもいいと 思うけれど…」(「恋心」)この歌を切々と歌い語った岸洋子さんも、今はいない。(風雨、さらに激しくなりました。少し中断します。この部分、さらに少し書き加えたいという気になっています。午後二時半)(2021/03/21)。

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