「春は名のみの 風の寒さや」だね

 如月(きさらぎ)も半を過ぎていきました。「早いものですね」と口に出すのは年寄りの証拠ともいえそうですが、今では若者だって「月日の経つのは夢のうち」と、まるで浦島太郎のような口吻を洩らす時代でもあります。どうして時間の経過が年齢や時代によって異なって受け取られるのか、いつも不思議に襲われます。一日はだれにとっても二十四時間ですから、そんなことは少しもないにもかかわらず、世間はそのようにいう。あるいは、そのように感じる人がいることは事実でしょう。1メートルは100センチという「長さの単位」は、だれにとっても曲げようのない長さとして受け入れられるのに、です。速さと長さは、感覚に与える印象がそれほど異なるということなのかも。(実はこういってしまうと、それは正確ではないような気もする。ここに、人間の感覚と、定常的な時間や距離の受け止め方には大きな「曲折」「変容」があることを、もう少し丁寧に書く必要があります。でも、今はこのままにしておきます)

 また「楽しい時は、あっというまに過ぎる」といい、「こんな苦しいことは一刻も早く終わってほしい」と願うのも、考えてみれば根拠があっての「物言い」ではなく、たんなる感覚、感性の「表現(受け止めた方)」なのでしょう。それもまた、根拠だと言えなくもないが。終わってしまえば、「一瞬」と感じるのは、もはや取り返せないからという気持ちの表れであり、いまではあまりつかわれなくなったような「待望久しい」という時間の持ち方は、それとは異質の感覚に働きかけるのでしょう。いずれにしても過去と未来に対する受容の姿勢は、明らかに以前とは違っています。今では現在も過去も未来も、同じ尺度のメモリのように、それぞれが入り組んで、あるいは重なっていると受け取られています。三年先の子尾t柄を、三年前から「カウントダウン」するなどという所業は、それを示しています。未来は明確に、現在の一部に、人為的に組み込まれているのです。 

 嫌なことは早く過ぎてほしいと願うが、それはなかなか終わらない、と言いますが、どうでしょう、入学試験などは、ぼくには嫌なことの代表ですが、仕方なく参加していても、もっと時間が欲しいと思うことはしばしでした。「まだ、問題の半分にも手を付けていないのに、もう終わりだ」と焦った経験をされた方は多いはずです。気持・気分次第で、同じ一時間が早くも遅くもと、違って過ぎるように感じる。そして後で振り返ると、それが五十年でも八十年でも「あっという間に過ぎてしまった」と、受け取るのではないでしょうか。ぼくも、八十の手前で息が切れそうですが、あまり過去のことを振り返ることをしてこなかった人間です。それでも、何かの拍子に「まるで一瞬だったなあ」と実感することがあります。これは「後期高齢者」になった「浦島太郎」ですな。「月日の経つのは、夢のうち」なんですね。(余談ですが。高齢であることが、けっして望まれていないことを、世間は当事者に向かって露わにする時代に、ぼくたちは生きている。長寿とか米寿・卒寿、あるいは白寿などと、さも長生きは「寿(ことほ)ぐ」べきものとされていたのは、そんな「長生き時代」が来るとは考えていなかったからではないか、と勘繰りたくもなりますね)

 この年齢になって、なおさら感慨深く思い出されることがあります。もう二十年近く前だったと思う。あるいは十年ほど前に、おふくろが具合が悪くなって入院していた病院を訪ねた時だったかもしれない。まだ意識もはっきりしていた。そのとき不意に、彼女が「あんたや、いくつになったんや」と訊いたのです。「もう還暦や」と答えたら、おふくろは「へえ、もうそんなになるんか」と、驚いたように言ったのです。ぼくは、ある種の感激というか驚愕を持って「その言葉」を聞いたので、今でも忘れられないこととして、何かの折におふくろのことを想い出すと、記憶が蘇ってくる。それはどういうことだったのか。おふくろにすれば「いくつになっても子どもは子ども」ということでだったし (それは事実です)、子どもは歳をとらないものとみなしていた証拠です。自分が産んだ子どもの年齢を聞いて驚く、それを聞いた子ども自身も驚く、この「驚き」の中に、親子の間で偽りのない「時間の過ぎ行くさま」が表れているのではないでしょうか。(同じ時間を違って経験するというのは、奇妙なことですね)

 この「如月(きさらぎ)」という漢字も言葉使いも、ぼくは好んでいます。もうとっくに亡くなった俳優で「如月寛多」という人がおられました。「如月」といえば、彼を思い浮かべたりします。あるいは、この人も亡くなられたようですが、作家の「如月小春」さん。珍しい名前の人という意味で、記憶しているのです。「二月二月」さんという気味ですね。もともとは、この言葉には多様な内容や解釈が含まれていて、履歴が明らかではなさそうです。でも、ぼくの好みでいえば「衣更着」説です。今頃の気候にも使われると思うのですが、「寒の戻り」「夜寒(よかん・よさむ)」など言われる時期に、さらに一枚服を重ねるという頃合いを指しているみたいですね。「次の間の灯で飯を喰ふ夜寒哉 (一茶)」という侘びしさが染入るような句がありました。また、三寒四温ともいって、とにかく、温かい春の訪れを、今かと待っている、人々の生活に「如月」は深く入り込んでいるようにも見られてきます。拙宅前の「空地」(といっても所有者はいます)には、菜の花が数本ばかり、背を伸ばし始めています。雪の中、きっと根を張り茎を通して栄養を取って、やがて花を咲かせるのです。 

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◎ 如月(きさらぎ)=陰暦2異称。「衣更着」とも書くが、これは平安末期の歌人藤原清輔(きよすけ)がその歌論書『奥儀抄(おうぎしょう)』に、「正月のどかなりしを、此月さえかへりて、更にきぬを着れば、きぬさらぎといふをあやまれるなり。按(あん)ずるに、もとはきぬさらぎ也(なり)」というように、「更にを重ね着る」という意に解したことによると考えられる。江戸中期の賀茂真淵(かもまぶち)は、「木久佐波利都伎也(きくさはりつきなり)」と説き、草木が芽を張り出すという意からできたことばとするが、ほかに「気更に来る」の義とし、陽気の盛んになることをいうとする説もある。俳句作法上、2月とは異なった点を十分に理解する必要があるむずかしい季語とされる。(ニッポニカ)

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 若いころから、三好達治さんの詩をよく読んできました。あまりにも高名な詩人でしたから、ここに持ちだすのも気が引けるのですが、こんな時期に思い出すいくつかの詩の中の一つを。題して「冬の日」。昭和十六年の作といいますから、「戦時下」の、朝鮮の地、慶州において詠まれたものでしょうか。これと同名の小説が、三好さんの親友だった梶井基次郎にあります。「冬の日」の発表は昭和二年ごろでした。したがって、三好さんの詩とは直接の結びつきはない。しかし、この小説が書かれていたころ、三好さんはそれを読んで激賞したと言われています。おそらく、梶井さんにとって、三好達治はかけがえのない、無二の親友じゃなかったでしょうか。同郷の誼(よしみ)が働いたこともあったでしょうか。この梶井さんの小説のヒントは「芭蕉七部集 第一篇」にある「冬の日」(「狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉)」)から得ていたことも判明しています。梶井さんは芭蕉の研究に打ち込んでいた方でした。句作もよくされていたと言います。もちろん三好さんも同様でした。三者三様の「冬の日」に、ぼくは限りないつながりを認めたくなって困るほどです。それは「冬」という季節が内包している、鈍感になってしまったぼくらにはたやすくは感じられない、ある秘匿された約束(季節のささやき)のようなものがあるのではないでしょうか(いつの日か、この三つの「冬の日」を主題として、駄文を弄したいと願うこと頻りです)

 芭蕉「野ざらし紀行」(貞亨元年8月~貞亨2年4月)より。

 (奈良に出る道のほど) 春なれや名もなき山の薄霞

 (二月堂に籠りて) 水とりの氷の僧の沓の音  (左写真は東大寺二月堂「お水取り」)

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◎ 三好達治(みよしたつじ)(1900―1964)=昭和期の詩人、翻訳家。大阪生まれ。陸軍士官学校放校後、旧制第三高等学校に入学。梶井基次郎(かじいもとじろう)、丸山薫(まるやまかおる)らと交友した。東京帝国大学仏文科に入学後、同人誌「」、「青空」、また1928年(昭和3)創刊の「詩と詩論」などに短や散文詩を発表。ヨーロッパから入ってきたモダニズムの表現方法を用いて、日本の伝統詩歌や漢詩が表現した抒情(じょじょう)世界を知的につくりかえることで、物真似(ものまね)ではない真の前衛詩の書き手であろうとした。1930年に第一詩集測量船』を刊行。1932年の喀血(かっけつ)入院を契機に、フランシス・ジャムや漢詩の詩法を導入し、美しい死的幻想世界から生命感あふれる田園世界と転じた四行詩集『南窗集(なんそうしゅう)』を刊行。1934年、堀辰雄(ほりたつお)らと、主知的抒情詩の拠点となった第二次『四季』を創刊し、戦前の詩壇を牽引(けんいん)した。第二次世界大戦後、沈潜するニヒリズムを諧謔(かいぎゃく)と風刺で表現した詩集『駱駝(らくだ)の(こぶ)にまたがつて』や評論集『萩原朔太郎』などを刊行。また、ボードレール、ファーブルの翻訳でも知られている。(ニッポニカ)

◎ 梶井基次郎(かじいもとじろう)(1901―1932)=小説家。明治34年2月17日、大阪市に生まれる。第三高等学校理科を経て1924年(大正13)東京帝国大学英文学科に入学。三高時代すでに肺結核にかかっていた。25年、中谷孝雄(なかたにたかお)、外村繁(とのむらしげる)らと同人雑誌『青空』を創刊、『檸檬(れもん)』『城のある町にて』などを発表し、病んだ心身についての自覚と健康回復への願いとを、鋭敏な感覚的表現に託した。26年末から伊豆の湯ヶ島に転地療養。『蒼穹(そうきゅう)』『冬の蠅(はえ)』(ともに1928)などを発表、自ら「リヤリスチック・シンボリズム」とよぶ手法によって、死を予感する自己を冷静に凝視した。この間、病状が進み、28年(昭和3)秋、大阪の両親のもとに帰る。大学のほうは同年3月に除籍された。帰阪後は療養に努めながら、『桜の樹(き)の下には』(1928)、『愛撫(あいぶ)』(1930)、『交尾』(1931)などの詩的散文を発表した。31年、創作集『檸檬』を武蔵野(むさしの)書院より刊行、翌32年1月、文壇の登竜門といわれた『中央公論』に『のんきな患者』を書き、病者である自己と他者との関係を主題とした新しい作風を示したが、3月24日永眠した。今日では20年代後半の正統的芸術派の作家として高く評価されている。(ニッポニカ)

  冬の日  ――慶州佛國寺畔にて

ああ智慧は かかる靜かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に來る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舍の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に來て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寶が世にあらう」

秋は來り 秋は更け その秋は已にかなたに歩み去る
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでゐた
それは今日この新らしい冬のはじまる一日だつた
さうして日が昏れ 夜半に及んでからも 私の心は落ちつかなかつた
短い夢がいく度か斷れ いく度かまたはじまつた
孤獨な旅の空にゐて かかる客舍の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことに懊んでゐた
さうして今朝は何といふ靜かな朝だらう
樹木はすつかり裸になつて
鵲の巣も二つ三つそこの梢にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきつて
それらの間に遠い山脈の波うつて見える
紫霞門の風雨に曝された圓柱には
それこそはまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ陽ざし
裾の方はけぢめもなく靉靆として霞に消えた それら遙かな
巓の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊とした奧ゆきで
空間(エスパース)てふ 一曲の悠久の樂を奏しながら
いま地上の現(うつつ)を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる
その軒端に雀の群れの喧いでゐる泛影樓(へんえいろう)の甍のうへ
さらに彼方疎林の梢に見え隱れして
そのまた先のささやかな聚落の藁家の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
どこまでも遠くはてしなく
靜寂をもつて相應へ 寂寞をもつて相呼びながら連つてゐる
そのこの朝の 何といふ蕭條とした
これは平和な 靜謐な眺望だらう

さうして私はいまこの精舍の中心 大雄殿(だいゆうでん)の縁側に
七彩の垂木たるきの下に蹲まり
くだらない昨夜の惡夢の蟻地獄からみじめに疲れて歸つてきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりでない私の心を眺めてゐる
眺めてゐる――
今は空しいそこここの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石燈(せきとう)の灯袋(ひぶくろ)にもありなしのほのかな陽炎のもえてゐるのを

ああ智慧は かかる靜かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に來る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舍の庭に
前觸れもなくそれが汝の前にきて
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寶が世にあらう」
 あはれよしわれらの國は

われこの日
遠き旅よりかへりきて
あはれこの住みふりし窓に坐りぬ
落葉つむ苔の庇を
遊び場に啼くや雀子
高からぬその軒の端に
函根路の山はかすみて
隣り家の蜜柑畠に
子守唄ひねもすきこゆ
戰ひのある日とは思もへ
のどかなる冬のひと日や
われこの日
遠き旅よりかへりきて
思ふことすべてなごみぬ
あはれよし
かくもよしわれらの國は 

反歌

戰ひのある日と思ひ日の本の荒磯ありそに
たてば海の音よし
(「あはれよしわれらの國は」「婦人公論」
昭和16年2月)
(三好達治「冬の日」『一點鐘』)(S16.10刊)

 三好達治さんに関しても、この駄文集録のどこかで触れています。「冬の日」は昭和十六年の前半に朝鮮に出かけた際のもので、すでに「日中戦争」は闘い続けられていたし、英米と一戦を交えるのは、彼の帰国直後でした。「戦火」の時代に、三好さんの「冬の日」を置いて読むと、どんな印象がきたしてくるのか。「戰ひのある日とは思もへ / のどかなる冬のひと日や / われこの日 / 遠き旅よりかへりきて / 思ふことすべてなごみぬ / あはれよし/ かくもよしわれらの國は」と謳うのは、三好さんの実感でしたろう。「冬の日」は、しばしば引用されるにしては、その詩の生みだされる経緯には、ほとんど触れられていないことを、ぼくはいささか憾みにも遺憾にも思うものです。戦後、三好さんは「戦争詩人」などととらえられ、なにかと物議をかもしました。「陸軍幼年学校」に在学していたこともあり、「戦争と文芸」という主題は、三好達治の越えがたい宿題であったと言えます。今こそ「冬の日」一篇を、詩人は植民地化されていた朝鮮の地で詠んだということを、静かに読み解きたいと念じています。 

 <ああ智慧は かかる靜かな冬の日に / それはふと思ひがけない時に來る / 人影の絶えた境に / 山林に / たとへばかかる精舍の庭に / 前觸れもなくそれが汝の前にきて / かかる時 / ささやく言葉に信をおけ / 「靜かな眼 平和な心 その外に何の寶が世にあらう」>

 この一連だけを切り離してみれば、「なんという深遠な、なんという静寂な」という感想を持ってしまうかもしれません。それでまちがいはないのです。しかし、慶州という植民地化された「内地」にいて、このような詩を生み出すときの作者の詩作・思想の仕組み、さらには感情の動きはいかばかりのものだったか、それを考えると、ぼくは、静かに頭を垂れて、「戦争」というものがもたらす人間の姿勢や態度に及ぼす、測り知れない「影(陰翳)」を見てしまうのです。三好さんの「詩」は、ぼくには不可解な部分がいっぱいあってこその「詩」でした。

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 ぼくの体感というか、印象だけでいえば、今年は例年になく寒いという気がします。買出しにでかける以外はまず外には出ない。庭仕事も「冬眠中」です。本日は、寒中の谷間なのか、寒気の一休み、ことのほか温かい日差しに恵まれています。猫が半分以上も「風邪」を引いたらしく、家中に「吐しゃ物」をさらけ出しています。雪の日に、何時間も外で遊んでいたのが災いをしたのではないかと思っている。少しはよくなり、吐くこともしなくなったようなので、このままで治ってくれることを願うばかり。人間も同じで、少し調子に乗ると転覆するし、ふさぐと、ろくでもないことを愚かにも考え込んでしまうものです。そんな時節、陽光が差せば、きっと心も晴れる。「三寒四温」という表現がうまく合うような時期になったのかもしれません。元来は中国や韓国で使われていたものだそうで、この島の場合には、二寒三温程度の天候の変化が続いて、いつかしら「菜の花畑に入日薄れ」となるのでしょう。

 昨年も書いたように「春は名のみの、風の寒さや」という季節が、いましばらく続くのかもしれません。この唱歌が発表されたのは一九一三年でした。祖国はすでに朝鮮半島を占領地にしていました。だから、三好さんの旅は「内地旅行」でしたね。この時期以降、多くの人間が半島に渡っていきます。それぞれが、独自の「紀行記」を残しています。漱石の「満韓ところどころ」(「併合直前」の旅行)は、繰り返し読んだものです。事情があって「満州」のみで終わっている。それらにも触れたいですね。(この部分は、さらに書き続けることになりそうです)

 HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

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蛇足になりますが、それを承知で「冬」に因んで持ちだしてみたくなりました。動画はヴィヴァルディ(1678-1741)の合奏協奏曲集「四季」の中の「冬」です。作曲者はイタリア人であり、演奏家たちはノルウェーの人たち。ヴァイオリンのソロは Mari Samuelsen((born 21 December 1984)。彼女に関してはどこかで触れています。それぞれが「冬」というものをどのようにイメージしているか、考えてみると、実に興味のある主題になるのではないでしょうか。この「四季」の中の「冬 ラルゴ」は、もっとも早い時期における西洋古典音楽の洗礼を、ぼくが受けた切っ掛けとなったもので、ほぼ同時期に、何年にもわたって、パッヘルベルの「カノン」を狂ったように聴いていたことを記憶しています。今から、もう六十年近くも前になります。この島では「カノン」は、まだほとんど知られていなかったころでした。(https://www.youtube.com/watch?v=Yu6Hr9kd-U0) 

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 上で述べているように、芭蕉や三好達治、あるいは梶井基次郎らが、それぞれに「冬の日」に自らの想いを寄せているのですが、それらがイタリア人で、芭蕉と同時代人ともいえるヴィヴァルディの描く「冬」に似て非なる印象があったのは当然ですね。それにしても、過ぎ去る時間のなかで、生きている実感を、それぞれの表現手段・手法でつかみ取る能力・才能の開花と展開・結実に感嘆するばかりです。いかにも人間には不思議な知恵が宿っているんですね。いまさらのように、それを実感し、感謝している。その人間が、人を殺し、原爆を落とすのです。(2022/02/16)

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